ペルソナ用品が激安楽天市場で通販生活

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ペルソナで救える命がある

愛を与えまくって、本当の自分として生きたいあなたを応援するサトヒです!




こんにちはチュー



先日書いた通り、ここ数日「お恨み帳」を書いておったわけですが、初めはおかんに向けて書いているつもりでも、書き続けていると、それは自分の内面の争いであることに気が付いたんですね
ポーン



未消化な思いはインナーチャイルドであり、自分を咎めるのはインナーアダルト





思考と感性の葛藤の構図は、まんまインナーチャイルドとインナーアダルトの衝突でもあったのです
ゲッソリ



潜在意識がパッカーンな幼少期(大体9歳くらいまでと言われてますね)に、周りの大人に刷り込まれた「こうあるべき」「当たり前」の世界





本来の感性は、インナーチャイルドそのものなんですね




子どもの頃の自分って、基本ありのままじゃないですか




「こうあるべき」に捉われていない、「こうしたい」の世界を自由に生きている状態




いつしか、大人になるにつれて、この世の常識や、自分の役割を意識するようになって、たくさんのペルソナ(仮面)を身につけていくわけです



感覚よりも思考が優位になり、損得勘定がうまくなっていく




どう立ち回れば、自分の利益が守れるのか、より多く得られるのかを、無意識に計算してたりするんですよね




もちろん、それは命を守るために必要だったことでもあります
グッ




でも、思考の力が過剰になればなるほど、本来の自然な感性が抑圧されてしまう
ゲロー



それが、私の息苦しさや不自由さの根本的な原因でした
ゲローゲローゲロー




ほんと、いい子として飼いならされてきたんだな〜笑い泣きとしみじみ思いましたが





それはそれで、無意識的な責任転嫁の手法でもあったんだなぁと感じたんです




最近、似たようなことを全く別の人から言われたのですが




「その時の自分がベストだと思って選んだことなら、しょうがなくない?」



それってつまり、自分の行動の責任を自分で取るってことじゃないかと思ったんです





「自分はそれがベストだと思っているから選んでいる」という覚悟と責任感…それこそが「自信」や「自己肯定感」というものなのかもしれません



誰かに怒られるのが怖くて、本当にしたいことをしないというのは、自分の行動の責任を「怒る人」に転嫁して、やらない理由にしてるだけなのかも




結局、怒られるのが怖い=自分の評価を他人に依存しているということですから




他人=おかんだとすれば、周りの評価を気にするメンタルは、内面的にはお母さんから自立できてない子どものメンタルってことなんですよね




大人になるってどういうことかといえば、自分の責任で自分の行動を選ぶということ




よく、「自由には責任が伴うもの」なんて言いますが、行動の責任を自分で取る覚悟があるからこその自由なんだと思うのです



つまり自由とは、自分で自分のケツを拭く覚悟をするってこと
笑い泣きキラキラ(例えがひどくてスミマセンw)




おかんが、おかんが…って、私は自分の人生の責任を放棄してたんだなーって、ようやく理解したんですよ
滝汗




自分を不自由にしてるのは、紛れもなく自分自身であって、それは自分の人生に対する責任逃れでもあった




私がこうするのは、おかんにこう言われたから…ってことを、大人になった今でも無意識にやり続けてるゲッソリ



でも、これは誰の人生だっけ?




私の人生でしょ‼️




いい子でいるよりも大事なことがあることに、私の思考がようやく気付き始めたような気がします
笑い泣き

そう思えたことで、ようやく自分の力が自分に戻ってきた感じがする…



最近、女性性向上活動の一環として、性的な表現が強めだというこちらの本を読んでいるのですが


1,800円
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どんぴしゃで「いい子ちゃん」の話で衝撃を受けましたわww (そして、文字で読む方がエロスはグッとくることに気付いた私)



一言で言えば、「ドエロのいい子ちゃんが自分の殻を破っていく話」ですww→表現笑い泣き




抑圧されたエネルギーって、すさまじいんですよね…滝汗




抑圧するからこそ、増大するという性質もあるのかもしれません




だとしたら、解放されたときにすごい力を発揮するということでもある
ポーン




もう、覚悟決めて自分らしく生きたいって、ほんとーに心の底から思いましたっ!!



だって、もう子どもじゃないんだからw(てか、アラフォーだし)




もう、私は自由に生きるのじゃ‼️





ではまた
ラブラブ

ペルソナを笑うもの

俺が知る限りかわ由衣と思う堀江由衣動画を紹介する
まずはこれ
秘密のメイキング映像この堀江由衣はかわ由衣

そして次
これ昔NHKにでたやつ
ブルーレイのライブの堀江由衣よりかわ由衣

そして次
いきなりぱんつぱんついいだす堀江由衣かわゆい

そしてペルソナ4 マヨナカ生テレビ
この堀江由衣もかわ由衣

そう最後のペルソナ4 マヨナカ生テレビの動画で俺はとんでもないひとを知った
たしかに堀江由衣のギャクは面白い
しかしそれをはるかに凌駕するのが
関ドモンスネオウィスパーペル毛智一先生だ
マヨナカ生テレビの最初の方で堀江由衣が悪い噂しかきかないとか
のまないできたとか脱ぐ予定ありませんとか言っていたが
俺は最初さっぱり分からなかった
しかしペルソナ4 マヨナカ生テレビ動画をいろいろ見て分かった
堀江由衣ファンおまえらこれを見ろ
【最終回】TVアニメ『ペルソナ4』~マヨナカ生テレビ~

伝説は52分からはじまる
伝説のペルソナ合体が見られる

【第03回】マヨナカ生テレビ The GOLDEN

伝説は55分からはじまる
伝説のペルちくびが見られる

【最終回】マヨナカ生テレビ The ULTIMATE

伝説は52分からはじまる
伝説のペル毛がみられる

いやあ堀江由衣も面白いけど
やっぱり関さん最高だ
以上

いきいき、ペルソナ

第482話/ウシジマくん68

滑皮が鳩山に呼び出されて、豹堂と暗に意志確認を行ってきた帰りである。鳶田の運転でホテルに向かいながら、どういうはなしだったか話す。鳩山の言い分は、身内なんだから仲良くやれ、揉め事を起こすな、ということだ。しかしじっさいには、彼は滑皮と豹堂をぶつけるつもりでいる。つまり、鳩山の言いたかったことは、「俺の見えるところでもめるな」ということになる。

滑皮もその意図がわからないでもないだろうが、とりあえず仲良くしろといわれた事実にちがいはない。鳶田は丑嶋を使って豹堂を殺そうとしていることを心配するが、もとより滑皮は、そのつもりで丑嶋を使っている。要は、丑嶋は身内ではない、他人なのだ。

部屋の前について、いつものように鳶田が見送る。滑皮は、いままでの癖で、つい「お疲れ。梶尾。鳶田」といってしまう。鳶田はいっしゅん反応するが、すぐに知らないふりをするのだった。

とっさに出てきた習慣的な身振りで、じぶんの深層が自覚されてしまうということはある。滑皮があのように梶尾の名前を呼んでしまうことは、彼の喪失を見た目ほどには実務的に処理できてはいないことを示している。滑皮じしんは、梶尾の死を豹堂殺害への動機とすることである種ヤクザとしての報いを梶尾に与え、同時に滑皮のなかで梶尾の死は関係性のなかの「ヤクザの死」として変換されたはずである。ところが、梶尾が当たり前にいた日常の記憶は、コンピュータから不要なデータを消去するようには消えてくれないのである。

シャワーを浴びている滑皮が壁を殴る。少なくとも二度殴っていて、かたい壁を殴ったために拳が破れて血が出ている。すぐよこにシャワーがあって、そこは鏡になっているが、このぶぶんはどういう素材になっているのだろうか。ささいなことではあるが、鏡のなかに滑皮の姿がうつっていない。あとで見るが、滑皮にとってこのようにホテルの部屋のなかで、全裸になり、鏡の向こうのイレズミを確認する作業は、一種の確認である。それが見失われているのである。

水道で拳の血を洗う姿は、かつて、おそらくヤクザの仕事としてははじめて人を殺したときのあのものに重なるぶぶんがある。あのときは掌から血が出ていたが、滑皮もその感触をちょっと思い出しているのかもしれない。

さて、柄崎母の誕生会に乱入してきた戌亥である。戌亥はまず尾行を心配している。丑嶋は、尾行の心配はなし、知人から借りた代車でGPSも大丈夫なはず、というふうに説明する。酒が入っているのもあるだろうが、今回の丑嶋はよくしゃべる。そうか、戌亥は、解説キャラではなかったのだな。丑嶋とか滑皮とか、ぜんぜんしゃべんなくてなに考えてるかわからない人物のくちを開かせる位置なのだ。

そもそも尾行の心配をして生きていることがふつうではない。戌亥は、何度目かの「街を出ろ」をくちにする。たとえば、中国に行けば借金まみれの労働者が道にあふれている、丑嶋なら言葉もすぐ覚えるだろうから、そういうところで再起をはかってみてはどうかと。

それはまあいい。丑嶋にはどうしても聞きたいことがあった。なぜ滑皮についたのかと。もちろん丑嶋も、戌亥が滑皮と関係していることは知っていただろう。というか、戌亥にはそれが仕事なので、関係するなというのがむちゃなはなしである。丑嶋がいっているのはこれまでのことではなくて、いまの決定的な状況に至るまでのことだ。たとえば、旧シシックの金や隼人が奪った鼓舞羅の金などを丑嶋が隠し持っていたことを、滑皮は知っていた。それから、丑嶋の行動を制限しているもっとも大きなものとして、遠くにいる高田と小百合である。甲児は彼らの居場所を知っていた。おそらく滑皮に聞いたのだろう。では滑皮は誰から聞いたのか。こうした具合に、ちくちくと、丑嶋は行動をとりにくくなっていったのだ。これまでの緊張状態で、戌亥が職業的八方美人でいた状況とは、ちがってきているのである。とはいえ、その原因は、滑皮がいよいよ本気を出し始めたというところにあるだろう。戌亥としては、滑皮のおそろしさを知っているから、聞かれたら応える、というところだった。しかし、彼は情報屋であって誰かのスパイではなかったのだから、逆にいえば「聞かれなければいわない」ものだったのだ。そのバランスが崩れたのは、滑皮じしんが崩そうと動き始めたからなのだ。戌亥だけを責めるのも酷なはなしである。

しかしげんにそうして丑嶋が追い詰められていることはまちがいない。弱みでも握られているのかというと、そうでもない。戌亥は、丑嶋は自分のためだけに生きているが、滑皮は広く全体を考えている、という、よくわからないこたえかたをする。だから滑皮についたということなのだろうか。滑皮は裏の世界で天下をとるかもしれない。たぶん、そのほうがじぶんに得だというより、つかないのは損、あるいは実害に至る、というようなニュアンスだろう。

柄崎と柄崎母はそのまま眠ってしまい、夢のなかでごはんを食べていて和む。が、ふたりの激論はつづく。街を出ないなら、やはりヤクザになるべきではないか。丑嶋は、いまさらそんなことしたら笑われるという。「親分が言うことが絶対の世界なんて俺には到底無理だ」と。ここでは暴排条例にも触れられる。携帯持っただけで詐欺になるヤクザが、どうやって天下をとるのかと。稼げないのに上納金は大きく、週の半分は電話番してて仕事もろくにできない。まあ、仕事人間というか、合理的な丑嶋からしたらいかにもアホらしい。それに、丑嶋は客としてのヤクザもたくさん見てきた。クスリ漬けの女に食わせてもらうくらいしか生きるすべがないような連中ばかりだったのである。丑嶋の世界には、滑皮が梶尾たちの前にあらわしたような「かっこいいヤクザ」の姿は、少しも浮かんでこないのである。

さらに丑嶋は、「滑皮の野郎がなんでヤクザになんかなったのか気が知れない」とまでいう。この発言は、少し貴重である。なぜなら、この語調からは、感情移入のよすがが見て取れるからである。丑嶋にとって滑皮は、圧倒的に理解を絶した他者、ではないのだ。たとえばこのはなしを、総理大臣についていっているものと変換してみれば、その奇妙さがわかるかもしれない。

戌亥は、滑皮のことは好きではないという。丑嶋のほうがよほど大切な友達だ。だが、と続くのだろう。戌亥は滑皮のことばを思い出す。滑皮は、出世にはそんなに興味がない。ただ、「滑皮のところはヤバイ人間揃いだ」とおもわれたら最高だ。なぜなら、「ヤクザは究極の話暴力だ」からだ。理解を絶した狂人のようなあつかいでちょうどいい。そうすれば、座布団も金も自然についてくると。

ベランダで話しているふたりは、向かいの団地を見ているかっこうだ。実家の団地にいたころの戌亥は、窮屈でそれが嫌いだった。しかし探偵業をはじめて、ひとの堅実な生活を崩すようなことばかりしていると、ふと、団地のカーテンの向こうにあるおもいを馳せてしまうのである。

「みんな素の顔に無自覚で 街中歩いてるけど、

あの明かりの向こうでは

それぞれの役目をちゃんといきているんだなぁって」

そうしたところに電話がかかってくる。むろん滑皮である。

つづく。

やれやれ、滑皮、丑嶋、戌亥と、最重要人物3人の描写が深まった重量級の回であった。

滑皮は、なぜだか丑嶋が柄崎家でお祝いをしていることを知っている。戌亥が教えたのかもしれない。と同時に、尾行など心配ないといっていた丑嶋は、電話を見る前からそれが滑皮だと理解していた。つまり、戌亥がきた時点で、ここの場所は割れたということを、丑嶋は悟っていたのである。

滑皮は、いつもの癖で梶尾の名前を呼んでしまった。そのときに、滑皮の内側に抑圧されていた身体性のようなものがあたまをもたげている。ひとことでいえば、彼の情念である。滑皮は、生を全面的にヤクザとして貫徹することで、いまのありようを確立している。そのしるしが、イレズミと自重トレである。自重トレでは、存在そのものが負荷となる。筋肉は、次に同様の負荷がかけられても対応できるように成長する。滑皮は、背負うものも多いその大きな存在そのものに負けないよう自重トレを行うのである。

ホテルでのイレズミ描写は、たいがい鏡とセットである。ふつう、風呂に入るときひとはからだになるので、それだけのことではあるのだが、滑皮は鏡を経由して、じしんのフィクションとしてのありようを確認するのである。これを、ジャック・ラカンでは鏡像段階という。むろん、厳密には、幼児の人格形成期に行われることではあるが、滑皮ではヤクザの人格が後天的に装着されたものでもあるため、そう遠い指摘でもないだろう。ラカンでは、自我というものはあらかじめ備わっているものではないのである。鏡像、あるいは鏡像のようなものを通して、身体を操作する感覚と等しい動きをとるなにかと同一化することで、いわばフィクションとして自我が形成されるのである。身体の操作の感覚に納得がほどこされる、というようなところだろうか。

滑皮と丑嶋は本質的に同根である。今回の丑嶋の、なぜ滑皮がヤクザを選んだのかわからない、というような発言もそうしたところから出ているだろう。ふたりは、父なるものをどのようにあつかうかという点で分岐した。丑嶋は、今回もそんなことをいっていたが、搾取するものとしての父、そして父子の構造を徹底的に拒むことで、いまのポジションに到達した。たいして滑皮は、丑嶋と同じく父にいい記憶がないにもかかわらず、それを属人的なものとして処理したか(構造ではなく、じぶんの父が悪い)、あるいはそう思い込もうと努力しているのか、父子の関係に美しいものを見出そうとしている。それが、理不尽に耐えながら熊倉に敬意を示し、それじたいを梶尾たちに見せつけ、じしんもかっこいい兄貴でい続けようとしたことの原動力だ。こういう気持ちを丑嶋が理解できるはずはないのである。丑嶋は、父という概念を捨て去ることでウシジマくんになったのだ、そんな彼が、父に敬意を払う、ということに美学を見出すありようを理解できるわけがないのだ。

そして滑皮は、ほんらいの父との関係を棄却し、あらたな関係を人工物に求めるためか、生を全面的にヤクザなものに変えていく。これを、いままでは「ハレ」と「ケ」を用いて考察してきた。ふつうの人間の生活でも、たとえば仕事をしているときと家で家族と過ごすときでは心持ちが異なっているだろう。彼らはそれが徹底して分離している。丑嶋も、ウシジマくんとして、かなり徹底して「ハレ」にいるように努めているが、彼にも母(うーたん)という安らぎの場所がある。しかし滑皮はそうならない。いま考えついたことだが、それには理由がある。彼は、「ケ」を思い出すわけにはいかないのである。なぜなら、彼の原風景に生きている父は、否定すべきものだからだ。父を肯定する「ハレ」の場所に立ち続けるには、生を全面的にそういうものにし、もしハレとケのちがいがあるのだとしても、それは一次的な「ハレ」の内側でわかれるものでなければならないのである。

そうして、たしかにじぶんはヤクザである、ということを鏡像段階的に確認するために、鏡の前でイレズミが示される。その前で、今回の滑皮は冷静を保てない。たんなる作画の揺れかともおもわれるが、滑皮の足がうつっていても不思議はない鏡に、それがないのだ。彼はいま、鏡の向こうにいるじぶんを見失いつつあるのである。なぜかというと、梶尾への情念が、全面的に「ハレ」であるところの「ヤクザ滑皮」のなかにはありえないことだからである。梶尾の死は、ヤクザの死である。滑皮はおそらく、それを心理的な口実、大義として、豹堂殺害をいよいよ実行に移そうとしているわけである。その意味で、梶尾の死は報われている。梶尾は、ヤクザとして、滑皮の役に立っているわけだ。親分としての滑皮は、それを過不足なく拾うだけだ。しかし、じっさいの人間どうしの関係では、そのようにひとの死を処理することはできない。保険金をもらったり、四十九日がすぎたりしたら、きれいさっぱりそのひとの記憶がなくなってしまうわけではないからである。しかし、「ハレ」のなかにいる「ヤクザ滑皮」には、ほんらいそうした情念はありえない。それが兆してしまった。これが、滑皮を強く揺さぶるのだ。

今回は戌亥経由の滑皮描写もあった。発言じたいもそうだが、滑皮がこうしたはなしを戌亥にしているというのも考えてみればおもしろい。彼は、一日のどの瞬間を切り取っても「ヤクザ滑皮」である。ヤクザのものは、滑皮を、尊敬したりうとましくおもったりするし、カタギのものは、知らないか、恐れ、無
係でいたいとおもうだろう。事実として、滑皮に「ヤクザ滑皮」として接するものしか、彼のまわりにはいないのである。しかし、ふわふわとどこにも腰をすえない戌亥は、いかにも話しやすい。今回丑嶋がやたら饒舌だったのもそういうことだろう。いってみれば戌亥は、なにものでもないのである。だから、みんなけっこうぽろっと本音が出てしまう。このことはこのあとさらに考える。

そして滑皮がなにを語ったのかというと、「ヤクザは暴力」という、飯匙倩と同じことなのであった。いずれの場合も、ヤクザは「かかわったらたいへんだ」という具合に、相手の想像力に訴えかけるしかたで仕事をする。だから、なめられる、つまり、潜在する暴力の量を低く見積もられると、仕事ができなくなる。ハブが丑嶋にこだわったのはそういうことである。だから、このはなしはヤクザには真理だろう。問題なのは、戌亥がなぜこの場面を、このタイミングで思い出したのかということだ。つまり、戌亥は滑皮のどういうところをみて、天下をとる、極端だと感じたのか。出世には興味はない、というのはまあまあ意外だが、暴力のくだりなどは、ハブサンを踏まえた我々からすると、案外すんなり受け止められる言い分である。重要なのはたぶん、狂人扱いでいい、というところなのかもしれない。逆に言えば、なぜひとは、狂人扱いを嫌がるのだろうか。それは、そうではないからである。狂人でないのにそのような扱いをされたら、もし表面に出ている行動がそれにちがいないものなのだとしても、<ほんとうはそうではないのだ>という気持ちは、当然出てくるだろう。ここには、「ほんとうのわたし」を正しく見てもらいたい、という欲望が感じられる。別に難しいはなしではない。じぶんのことをバカだとはおもっていないところでバカあつかいされたら、そんなことはないのにと、誰だっておもうのだ。しかし滑皮はここから先を切り捨てる。「ほんとうのわたし」は、鏡の向こうに、イレズミとともに確認できる「ヤクザ滑皮」であり、それを見てひとがおそれ、狂人扱いをするなら、それは正しい反応なのだ。彼にとっては鏡の向こうのじぶんこそが全体であり、その内側、「ほんとうのわたし」などというものは、「ケ」とともに生の外側にしめだしてしまったのだ。鏡像段階ではフィクションとして自我が構築される。滑皮にとっては、鏡の向こうに見えているそれが、そのまま、他人の見ているわたしにほかならないのである。

今回は戌亥の描写も深まった。なんでもない描写だが、引用した団地のくだりである。戌亥は、カーテンの向こうにある家庭において、ひとびとがそれぞれの役目を果たしているという。「みんな素の顔に無自覚で街中」を歩いているというのがちょっとよくわからないが、まあ、ぼーっとなにものでもないような顔でいる、くらいのことだろうか。認識としてはわからないことではないが、ふつう、これは逆ではないだろうか。これは要するに「ハレ」と「ケ」が、カーテンを境に分節しているというはなしなのだが、個人主義的な、一般の認識では、まず「ケ」があって、必要に応じてペルソナが装着される、それぞれの社会的役目を果たす、というのが、通常の見方ではないだろうか。

だが、以上の考えを踏まえていえば、わからないことではない。丑嶋も滑皮も極端だ、というはなしは、要するに、ふたりともじぶんの役目を徹底的に貫きすぎだ、というはなしなのだ。そのいっぽうで戌亥は、職業上の理由もあって、むしろなにものでもないことが望まれる。尾行などしているときに、存在感いっぱいでは成り立たないからだ。どこにも属さない戌亥は、丑嶋の依頼も、滑皮の依頼も、等価にこなすことができた。ある意味では戌亥もまた、徹底して「ケ」を排除して、仕事に努めてきたのだ。本来であれば、「ケ」に属する丑嶋の肩を持ちたいところである。しかし滑皮へのこわさもあってそれはできない。結果、彼は滑皮とは逆に、生を全面的に漂白して、なにものにもならないことで、裏社会をサバイブしてきたのである。そんな彼は、社会のシステムにおいてそれなりになにものかであるだろうひとびとが、「素の顔に無自覚で」としかうつらない。それは、彼らの背景に「それぞれの役目」の備わった「ケ」を見て取れるからである。戌亥は、仕事を行ううえで、なにものでもないものを貫徹する。しかしそうするためには、私情をはさむことはできない。結果、彼もまた「ケ」を失う。そうしたうえで周囲を見てみると、同様にして社会で生きているものたちがぼんやり歩いている。戌亥には、じぶんがそうであるから、彼らもまたなにものでもないものにしか見えない。しかし、それなのに、彼らには「ケ」があるのである。

おそらくこれは、戌亥が、結果としては滑皮に加担することになりつつある現状によって呼び込まれたものだろう。どこにも属していないはずなのに、事実としてはそうではなくなりつつある。だとするなら、じぶんはなんなのだろう。こういうところで、抑圧してきた「ケ」が回帰しつつあるのだ。

※noteに真鍋昌平論を書きました!

ブログとは異なったアプローチで書いてるので、超長いですが、よろしくお願いします。

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さあ早くペルソナの上にタンポポを載せる仕事に戻るんだ

【「いい人」をやめて「シャドウ」を受け入れれば幸せになれる】

人は「役割」としての、
いくつもの顔を持っています。

いい人だと思われるために、
いつもモナリザのように微笑んでいたり、

自分を大きく見せるために、
威圧的な顔をしてみたり、

自分をごまかすために、
ちゃらんぽらんなふりをして、

ピエロを装ったり。

少なくとも、だれでもいくつかはもっている、
「素の自分ではない装った顔」

「素の自分ではない装った顔」=仮面のことを、

心理学では「ペルソナ」と言います。

「ペルソナ」をいくつも持つことは、
臨機応変な対応ができているということですから決して悪いことではありません。

ただいつの間にか、
場所や、コミュニティによって
自らいろんな仮面をかぶり、
どれが本当の自分かわからなくなってしまうと自分らしく生きることができません。

「嫌われたくない」

「大切にされたい」

エゴの欲求が強い人ほど、

「いい人」の仮面をかぶって疲れています。

「いい人」の仮面を脱げば、

ラクになれるのに。

「ペルソナ」とは反対で、
人には絶対に「見せたくない顔」
人には絶対に「見せない顔」も
私達は持っています。

それは「シャドウ」と呼ばれますが、
自分でもネガティブにとらえている自分自身の1面です。

あなたの周りには、
「どうしてもこの人だけは苦手」
という人はいませんか?

頑張っても、努力しても、
どうしても好意を持てない人。

それはあなたの
「シャドウ」を現わす人です。

多くの場合その人は、
あなたとは全く正反対なタイプの人
ではないでしょうか?

正反対の人というのは、
あなたが嫌っているもの、
抑圧されているもの、
抱えている痛みの要素を
見せてくれています。

例えば、
「甘えた人」が嫌いなら、
「甘えたいけど甘えられない自分」が
いるかもしれません。

「ズケズケとものを言う人」が苦手なら、

言いたいことを我慢しているのかもしれません。

着飾った女子が嫌いなら、
自分の女性性を受け入れていないのかもしれません。

そう、「シャドウ」は、
あなたの中にある
あなたが否定している要素を
わかる形で見せてくれているのです。

「どうしても苦手」という人が
目の前に現れた時が、
実はあなたの成長のチャンス!

もし目の前の苦手な相手を認め、
受け入れる事が出来たら、
あなたには深い癒しと成長が訪れます。

なぜなら,

相手が見せてくれるのは、
自分が今まで「否定してきた自分」

他人を見て、

「どうして空気が読めない人なんだろう!」

「自分のことばっかり!」

「思いやりのない人!」

と思ったときも同じです。

それらは全部『自分』です。

自分は合わせてあげているつもりかもしれませんが、

そう感じること自体、「自分もそう」だからです。

そんな腹黒い自分を認めたくなくて、

いい人のフリをして苦しくなってませんでしたか?

「そんな要素を持っている自分もアリかも」と許可を出せたなら、

あなたの自己肯定感はぐんと上がるからです。

「どうしても苦手な人」=シャドウな人を、嫌悪の対象とするか、
チャンスととらえるかは、あなた次第です。

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ゾウさんが好きです。でもキリンさんのほうがもーっと好きです。ちなみにペルソナは嫌いです

【「いい人」をやめて「シャドウ」を受け入れれば幸せになれる】

人は「役割」としての、
いくつもの顔を持っています。

いい人だと思われるために、
いつもモナリザのように微笑んでいたり、

自分を大きく見せるために、
威圧的な顔をしてみたり、

自分をごまかすために、
ちゃらんぽらんなふりをして、

ピエロを装ったり。

少なくとも、だれでもいくつかはもっている、
「素の自分ではない装った顔」

「素の自分ではない装った顔」=仮面のことを、

心理学では「ペルソナ」と言います。

「ペルソナ」をいくつも持つことは、
臨機応変な対応ができているということですから決して悪いことではありません。

ただいつの間にか、
場所や、コミュニティによって
自らいろんな仮面をかぶり、
どれが本当の自分かわからなくなってしまうと自分らしく生きることができません。

「嫌われたくない」

「大切にされたい」

エゴの欲求が強い人ほど、

「いい人」の仮面をかぶって疲れています。

「いい人」の仮面を脱げば、

ラクになれるのに。

「ペルソナ」とは反対で、
人には絶対に「見せたくない顔」
人には絶対に「見せない顔」も
私達は持っています。

それは「シャドウ」と呼ばれますが、
自分でもネガティブにとらえている自分自身の1面です。

あなたの周りには、
「どうしてもこの人だけは苦手」
という人はいませんか?

頑張っても、努力しても、
どうしても好意を持てない人。

それはあなたの
「シャドウ」を現わす人です。

多くの場合その人は、
あなたとは全く正反対なタイプの人
ではないでしょうか?

正反対の人というのは、
あなたが嫌っているもの、
抑圧されているもの、
抱えている痛みの要素を
見せてくれています。

例えば、
「甘えた人」が嫌いなら、
「甘えたいけど甘えられない自分」が
いるかもしれません。

「ズケズケとものを言う人」が苦手なら、

言いたいことを我慢しているのかもしれません。

着飾った女子が嫌いなら、
自分の女性性を受け入れていないのかもしれません。

そう、「シャドウ」は、
あなたの中にある
あなたが否定している要素を
わかる形で見せてくれているのです。

「どうしても苦手」という人が
目の前に現れた時が、
実はあなたの成長のチャンス!

もし目の前の苦手な相手を認め、
受け入れる事が出来たら、
あなたには深い癒しと成長が訪れます。

なぜなら,

相手が見せてくれるのは、
自分が今まで「否定してきた自分」

他人を見て、

「どうして空気が読めない人なんだろう!」

「自分のことばっかり!」

「思いやりのない人!」

と思ったときも同じです。

それらは全部『自分』です。

自分は合わせてあげているつもりかもしれませんが、

そう感じること自体、「自分もそう」だからです。

そんな腹黒い自分を認めたくなくて、

いい人のフリをして苦しくなってませんでしたか?

「そんな要素を持っている自分もアリかも」と許可を出せたなら、

あなたの自己肯定感はぐんと上がるからです。

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チャンスととらえるかは、あなた次第です。

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