ペルソナを選ぶとき、誰が、どんなふうにつくったか、気にする人が増えています。ビールは、どうですか?

ペルソナを選ぶとき、誰が、どんなふうにつくったか、気にする人が増えています。ビールは、どうですか?

とどくといいな ペルソナ

第482話/ウシジマくん68

滑皮が鳩山に呼び出されて、豹堂と暗に意志確認を行ってきた帰りである。鳶田の運転でホテルに向かいながら、どういうはなしだったか話す。鳩山の言い分は、身内なんだから仲良くやれ、揉め事を起こすな、ということだ。しかしじっさいには、彼は滑皮と豹堂をぶつけるつもりでいる。つまり、鳩山の言いたかったことは、「俺の見えるところでもめるな」ということになる。

滑皮もその意図がわからないでもないだろうが、とりあえず仲良くしろといわれた事実にちがいはない。鳶田は丑嶋を使って豹堂を殺そうとしていることを心配するが、もとより滑皮は、そのつもりで丑嶋を使っている。要は、丑嶋は身内ではない、他人なのだ。

部屋の前について、いつものように鳶田が見送る。滑皮は、いままでの癖で、つい「お疲れ。梶尾。鳶田」といってしまう。鳶田はいっしゅん反応するが、すぐに知らないふりをするのだった。

とっさに出てきた習慣的な身振りで、じぶんの深層が自覚されてしまうということはある。滑皮があのように梶尾の名前を呼んでしまうことは、彼の喪失を見た目ほどには実務的に処理できてはいないことを示している。滑皮じしんは、梶尾の死を豹堂殺害への動機とすることである種ヤクザとしての報いを梶尾に与え、同時に滑皮のなかで梶尾の死は関係性のなかの「ヤクザの死」として変換されたはずである。ところが、梶尾が当たり前にいた日常の記憶は、コンピュータから不要なデータを消去するようには消えてくれないのである。

シャワーを浴びている滑皮が壁を殴る。少なくとも二度殴っていて、かたい壁を殴ったために拳が破れて血が出ている。すぐよこにシャワーがあって、そこは鏡になっているが、このぶぶんはどういう素材になっているのだろうか。ささいなことではあるが、鏡のなかに滑皮の姿がうつっていない。あとで見るが、滑皮にとってこのようにホテルの部屋のなかで、全裸になり、鏡の向こうのイレズミを確認する作業は、一種の確認である。それが見失われているのである。

水道で拳の血を洗う姿は、かつて、おそらくヤクザの仕事としてははじめて人を殺したときのあのものに重なるぶぶんがある。あのときは掌から血が出ていたが、滑皮もその感触をちょっと思い出しているのかもしれない。

さて、柄崎母の誕生会に乱入してきた戌亥である。戌亥はまず尾行を心配している。丑嶋は、尾行の心配はなし、知人から借りた代車でGPSも大丈夫なはず、というふうに説明する。酒が入っているのもあるだろうが、今回の丑嶋はよくしゃべる。そうか、戌亥は、解説キャラではなかったのだな。丑嶋とか滑皮とか、ぜんぜんしゃべんなくてなに考えてるかわからない人物のくちを開かせる位置なのだ。

そもそも尾行の心配をして生きていることがふつうではない。戌亥は、何度目かの「街を出ろ」をくちにする。たとえば、中国に行けば借金まみれの労働者が道にあふれている、丑嶋なら言葉もすぐ覚えるだろうから、そういうところで再起をはかってみてはどうかと。

それはまあいい。丑嶋にはどうしても聞きたいことがあった。なぜ滑皮についたのかと。もちろん丑嶋も、戌亥が滑皮と関係していることは知っていただろう。というか、戌亥にはそれが仕事なので、関係するなというのがむちゃなはなしである。丑嶋がいっているのはこれまでのことではなくて、いまの決定的な状況に至るまでのことだ。たとえば、旧シシックの金や隼人が奪った鼓舞羅の金などを丑嶋が隠し持っていたことを、滑皮は知っていた。それから、丑嶋の行動を制限しているもっとも大きなものとして、遠くにいる高田と小百合である。甲児は彼らの居場所を知っていた。おそらく滑皮に聞いたのだろう。では滑皮は誰から聞いたのか。こうした具合に、ちくちくと、丑嶋は行動をとりにくくなっていったのだ。これまでの緊張状態で、戌亥が職業的八方美人でいた状況とは、ちがってきているのである。とはいえ、その原因は、滑皮がいよいよ本気を出し始めたというところにあるだろう。戌亥としては、滑皮のおそろしさを知っているから、聞かれたら応える、というところだった。しかし、彼は情報屋であって誰かのスパイではなかったのだから、逆にいえば「聞かれなければいわない」ものだったのだ。そのバランスが崩れたのは、滑皮じしんが崩そうと動き始めたからなのだ。戌亥だけを責めるのも酷なはなしである。

しかしげんにそうして丑嶋が追い詰められていることはまちがいない。弱みでも握られているのかというと、そうでもない。戌亥は、丑嶋は自分のためだけに生きているが、滑皮は広く全体を考えている、という、よくわからないこたえかたをする。だから滑皮についたということなのだろうか。滑皮は裏の世界で天下をとるかもしれない。たぶん、そのほうがじぶんに得だというより、つかないのは損、あるいは実害に至る、というようなニュアンスだろう。

柄崎と柄崎母はそのまま眠ってしまい、夢のなかでごはんを食べていて和む。が、ふたりの激論はつづく。街を出ないなら、やはりヤクザになるべきではないか。丑嶋は、いまさらそんなことしたら笑われるという。「親分が言うことが絶対の世界なんて俺には到底無理だ」と。ここでは暴排条例にも触れられる。携帯持っただけで詐欺になるヤクザが、どうやって天下をとるのかと。稼げないのに上納金は大きく、週の半分は電話番してて仕事もろくにできない。まあ、仕事人間というか、合理的な丑嶋からしたらいかにもアホらしい。それに、丑嶋は客としてのヤクザもたくさん見てきた。クスリ漬けの女に食わせてもらうくらいしか生きるすべがないような連中ばかりだったのである。丑嶋の世界には、滑皮が梶尾たちの前にあらわしたような「かっこいいヤクザ」の姿は、少しも浮かんでこないのである。

さらに丑嶋は、「滑皮の野郎がなんでヤクザになんかなったのか気が知れない」とまでいう。この発言は、少し貴重である。なぜなら、この語調からは、感情移入のよすがが見て取れるからである。丑嶋にとって滑皮は、圧倒的に理解を絶した他者、ではないのだ。たとえばこのはなしを、総理大臣についていっているものと変換してみれば、その奇妙さがわかるかもしれない。

戌亥は、滑皮のことは好きではないという。丑嶋のほうがよほど大切な友達だ。だが、と続くのだろう。戌亥は滑皮のことばを思い出す。滑皮は、出世にはそんなに興味がない。ただ、「滑皮のところはヤバイ人間揃いだ」とおもわれたら最高だ。なぜなら、「ヤクザは究極の話暴力だ」からだ。理解を絶した狂人のようなあつかいでちょうどいい。そうすれば、座布団も金も自然についてくると。

ベランダで話しているふたりは、向かいの団地を見ているかっこうだ。実家の団地にいたころの戌亥は、窮屈でそれが嫌いだった。しかし探偵業をはじめて、ひとの堅実な生活を崩すようなことばかりしていると、ふと、団地のカーテンの向こうにあるおもいを馳せてしまうのである。

「みんな素の顔に無自覚で 街中歩いてるけど、

あの明かりの向こうでは

それぞれの役目をちゃんといきているんだなぁって」

そうしたところに電話がかかってくる。むろん滑皮である。

つづく。

やれやれ、滑皮、丑嶋、戌亥と、最重要人物3人の描写が深まった重量級の回であった。

滑皮は、なぜだか丑嶋が柄崎家でお祝いをしていることを知っている。戌亥が教えたのかもしれない。と同時に、尾行など心配ないといっていた丑嶋は、電話を見る前からそれが滑皮だと理解していた。つまり、戌亥がきた時点で、ここの場所は割れたということを、丑嶋は悟っていたのである。

滑皮は、いつもの癖で梶尾の名前を呼んでしまった。そのときに、滑皮の内側に抑圧されていた身体性のようなものがあたまをもたげている。ひとことでいえば、彼の情念である。滑皮は、生を全面的にヤクザとして貫徹することで、いまのありようを確立している。そのしるしが、イレズミと自重トレである。自重トレでは、存在そのものが負荷となる。筋肉は、次に同様の負荷がかけられても対応できるように成長する。滑皮は、背負うものも多いその大きな存在そのものに負けないよう自重トレを行うのである。

ホテルでのイレズミ描写は、たいがい鏡とセットである。ふつう、風呂に入るときひとはからだになるので、それだけのことではあるのだが、滑皮は鏡を経由して、じしんのフィクションとしてのありようを確認するのである。これを、ジャック・ラカンでは鏡像段階という。むろん、厳密には、幼児の人格形成期に行われることではあるが、滑皮ではヤクザの人格が後天的に装着されたものでもあるため、そう遠い指摘でもないだろう。ラカンでは、自我というものはあらかじめ備わっているものではないのである。鏡像、あるいは鏡像のようなものを通して、身体を操作する感覚と等しい動きをとるなにかと同一化することで、いわばフィクションとして自我が形成されるのである。身体の操作の感覚に納得がほどこされる、というようなところだろうか。

滑皮と丑嶋は本質的に同根である。今回の丑嶋の、なぜ滑皮がヤクザを選んだのかわからない、というような発言もそうしたところから出ているだろう。ふたりは、父なるものをどのようにあつかうかという点で分岐した。丑嶋は、今回もそんなことをいっていたが、搾取するものとしての父、そして父子の構造を徹底的に拒むことで、いまのポジションに到達した。たいして滑皮は、丑嶋と同じく父にいい記憶がないにもかかわらず、それを属人的なものとして処理したか(構造ではなく、じぶんの父が悪い)、あるいはそう思い込もうと努力しているのか、父子の関係に美しいものを見出そうとしている。それが、理不尽に耐えながら熊倉に敬意を示し、それじたいを梶尾たちに見せつけ、じしんもかっこいい兄貴でい続けようとしたことの原動力だ。こういう気持ちを丑嶋が理解できるはずはないのである。丑嶋は、父という概念を捨て去ることでウシジマくんになったのだ、そんな彼が、父に敬意を払う、ということに美学を見出すありようを理解できるわけがないのだ。

そして滑皮は、ほんらいの父との関係を棄却し、あらたな関係を人工物に求めるためか、生を全面的にヤクザなものに変えていく。これを、いままでは「ハレ」と「ケ」を用いて考察してきた。ふつうの人間の生活でも、たとえば仕事をしているときと家で家族と過ごすときでは心持ちが異なっているだろう。彼らはそれが徹底して分離している。丑嶋も、ウシジマくんとして、かなり徹底して「ハレ」にいるように努めているが、彼にも母(うーたん)という安らぎの場所がある。しかし滑皮はそうならない。いま考えついたことだが、それには理由がある。彼は、「ケ」を思い出すわけにはいかないのである。なぜなら、彼の原風景に生きている父は、否定すべきものだからだ。父を肯定する「ハレ」の場所に立ち続けるには、生を全面的にそういうものにし、もしハレとケのちがいがあるのだとしても、それは一次的な「ハレ」の内側でわかれるものでなければならないのである。

そうして、たしかにじぶんはヤクザである、ということを鏡像段階的に確認するために、鏡の前でイレズミが示される。その前で、今回の滑皮は冷静を保てない。たんなる作画の揺れかともおもわれるが、滑皮の足がうつっていても不思議はない鏡に、それがないのだ。彼はいま、鏡の向こうにいるじぶんを見失いつつあるのである。なぜかというと、梶尾への情念が、全面的に「ハレ」であるところの「ヤクザ滑皮」のなかにはありえないことだからである。梶尾の死は、ヤクザの死である。滑皮はおそらく、それを心理的な口実、大義として、豹堂殺害をいよいよ実行に移そうとしているわけである。その意味で、梶尾の死は報われている。梶尾は、ヤクザとして、滑皮の役に立っているわけだ。親分としての滑皮は、それを過不足なく拾うだけだ。しかし、じっさいの人間どうしの関係では、そのようにひとの死を処理することはできない。保険金をもらったり、四十九日がすぎたりしたら、きれいさっぱりそのひとの記憶がなくなってしまうわけではないからである。しかし、「ハレ」のなかにいる「ヤクザ滑皮」には、ほんらいそうした情念はありえない。それが兆してしまった。これが、滑皮を強く揺さぶるのだ。

今回は戌亥経由の滑皮描写もあった。発言じたいもそうだが、滑皮がこうしたはなしを戌亥にしているというのも考えてみればおもしろい。彼は、一日のどの瞬間を切り取っても「ヤクザ滑皮」である。ヤクザのものは、滑皮を、尊敬したりうとましくおもったりするし、カタギのものは、知らないか、恐れ、無
係でいたいとおもうだろう。事実として、滑皮に「ヤクザ滑皮」として接するものしか、彼のまわりにはいないのである。しかし、ふわふわとどこにも腰をすえない戌亥は、いかにも話しやすい。今回丑嶋がやたら饒舌だったのもそういうことだろう。いってみれば戌亥は、なにものでもないのである。だから、みんなけっこうぽろっと本音が出てしまう。このことはこのあとさらに考える。

そして滑皮がなにを語ったのかというと、「ヤクザは暴力」という、飯匙倩と同じことなのであった。いずれの場合も、ヤクザは「かかわったらたいへんだ」という具合に、相手の想像力に訴えかけるしかたで仕事をする。だから、なめられる、つまり、潜在する暴力の量を低く見積もられると、仕事ができなくなる。ハブが丑嶋にこだわったのはそういうことである。だから、このはなしはヤクザには真理だろう。問題なのは、戌亥がなぜこの場面を、このタイミングで思い出したのかということだ。つまり、戌亥は滑皮のどういうところをみて、天下をとる、極端だと感じたのか。出世には興味はない、というのはまあまあ意外だが、暴力のくだりなどは、ハブサンを踏まえた我々からすると、案外すんなり受け止められる言い分である。重要なのはたぶん、狂人扱いでいい、というところなのかもしれない。逆に言えば、なぜひとは、狂人扱いを嫌がるのだろうか。それは、そうではないからである。狂人でないのにそのような扱いをされたら、もし表面に出ている行動がそれにちがいないものなのだとしても、<ほんとうはそうではないのだ>という気持ちは、当然出てくるだろう。ここには、「ほんとうのわたし」を正しく見てもらいたい、という欲望が感じられる。別に難しいはなしではない。じぶんのことをバカだとはおもっていないところでバカあつかいされたら、そんなことはないのにと、誰だっておもうのだ。しかし滑皮はここから先を切り捨てる。「ほんとうのわたし」は、鏡の向こうに、イレズミとともに確認できる「ヤクザ滑皮」であり、それを見てひとがおそれ、狂人扱いをするなら、それは正しい反応なのだ。彼にとっては鏡の向こうのじぶんこそが全体であり、その内側、「ほんとうのわたし」などというものは、「ケ」とともに生の外側にしめだしてしまったのだ。鏡像段階ではフィクションとして自我が構築される。滑皮にとっては、鏡の向こうに見えているそれが、そのまま、他人の見ているわたしにほかならないのである。

今回は戌亥の描写も深まった。なんでもない描写だが、引用した団地のくだりである。戌亥は、カーテンの向こうにある家庭において、ひとびとがそれぞれの役目を果たしているという。「みんな素の顔に無自覚で街中」を歩いているというのがちょっとよくわからないが、まあ、ぼーっとなにものでもないような顔でいる、くらいのことだろうか。認識としてはわからないことではないが、ふつう、これは逆ではないだろうか。これは要するに「ハレ」と「ケ」が、カーテンを境に分節しているというはなしなのだが、個人主義的な、一般の認識では、まず「ケ」があって、必要に応じてペルソナが装着される、それぞれの社会的役目を果たす、というのが、通常の見方ではないだろうか。

だが、以上の考えを踏まえていえば、わからないことではない。丑嶋も滑皮も極端だ、というはなしは、要するに、ふたりともじぶんの役目を徹底的に貫きすぎだ、というはなしなのだ。そのいっぽうで戌亥は、職業上の理由もあって、むしろなにものでもないことが望まれる。尾行などしているときに、存在感いっぱいでは成り立たないからだ。どこにも属さない戌亥は、丑嶋の依頼も、滑皮の依頼も、等価にこなすことができた。ある意味では戌亥もまた、徹底して「ケ」を排除して、仕事に努めてきたのだ。本来であれば、「ケ」に属する丑嶋の肩を持ちたいところである。しかし滑皮へのこわさもあってそれはできない。結果、彼は滑皮とは逆に、生を全面的に漂白して、なにものにもならないことで、裏社会をサバイブしてきたのである。そんな彼は、社会のシステムにおいてそれなりになにものかであるだろうひとびとが、「素の顔に無自覚で」としかうつらない。それは、彼らの背景に「それぞれの役目」の備わった「ケ」を見て取れるからである。戌亥は、仕事を行ううえで、なにものでもないものを貫徹する。しかしそうするためには、私情をはさむことはできない。結果、彼もまた「ケ」を失う。そうしたうえで周囲を見てみると、同様にして社会で生きているものたちがぼんやり歩いている。戌亥には、じぶんがそうであるから、彼らもまたなにものでもないものにしか見えない。しかし、それなのに、彼らには「ケ」があるのである。

おそらくこれは、戌亥が、結果としては滑皮に加担することになりつつある現状によって呼び込まれたものだろう。どこにも属していないはずなのに、事実としてはそうではなくなりつつある。だとするなら、じぶんはなんなのだろう。こういうところで、抑圧してきた「ケ」が回帰しつつあるのだ。

※noteに真鍋昌平論を書きました!

ブログとは異なったアプローチで書いてるので、超長いですが、よろしくお願いします。

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ペルソナの噂

お幸せさまです。

桜織です。


アロマお茶会で大人気のアロマ使い

believe こと きよみん から


11月の開運情報&開運アロマを


教えてもらいましたよ〜


きよみんのブログはこちら♡


ひとつずつご紹介していきますね



6月生まれのあなた


☆開運情報

テーマ・・『直感』

あなたを守ってきた鎧や

顕在意識を解き放つとき。

直感に従い素直になり、行動する。

ただし、思考と直感を取り違えないこと。



☆開運アロマ

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『スペアミント』は


第3、第4、第5チャクラに対応するオイルです。


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あなたらしさを表現してゆけるオイル


人はきっと


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いくつもの仮面をかぶって生きている。


・良い上司であらねば。


・良い妻であり、母でなければ。


・物分かりの良いおりこうな娘じゃないと愛してもらえない。


きっとそう思わなければ


人生を生き抜いてこれなかったのかもしれませんね。


そんな仮面にお礼を言って


さよならしましょ〜う。


ありのままのあなたが目覚めるときで〜す

そんなときは


『スペアミント』


まとってきたペルソナ をかち割って (笑) 


自然体でありましょう。


あなたはそのままでいて


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『意識の具現化 アロマお茶会』
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次回の開催は

11月27日(火)
10〜12時 アロマお茶会 参加費 \1,000
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12月18日(火)
10〜12時 アロマお茶会 参加費 \1,000
19〜20時半 次元上昇アロマ瞑想会
参加費 \3,000


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一緒に開いていきましょ〜〜う







ペルソナをのぞこう。

【16】【~回想~教員時代後半、子育てとともに】

2017年1月1日。除夜の鐘が鳴り、新しい年がはじまったとき
私は、年末に出会った京都の覚者(せんせー)とお話したことを回想していた。

絵美「教育をすることはエゴですか?」

せんせー「今の社会では、愛からよりもエゴから教育をしています。なので子供たちを競争させたり、比べたりしてあるために問題を引き起こします。愛から教育すれば何も問題はありません。将来の地球も愛から教育できるようになるでしょう。」

→でもせんせー、何をどうしたら変わっていけるの?私だって、競争させたり比べたりするような教育はもうしたくない。でも、自分の中に毅然として持てる信念が探せなかった。それでも、それでも精一杯お勤めしてきたつもりです。

→教師を辞めたのは、「子どもも小さいし、夫も仕事が忙しいので2人でフルタイム勤務するのは難しいと思いました。」と答えましが、色々な制度を使えば続けられないことはなかった。退職する必要はなかったのです。

そんなふうにまた、ここにいないせんせーに問いかける。

教員として仕事をすることはできても、どのような人を育てていけばいいのか自分の目指すものを11年間、探して探して、でも結局見つからなくて、どこか他にあるのではないかと探し始めていました。私は真の愛を心に育てて教育に携わっていきたいと切望しています。それがどんな形になろうとも構いません。形にも身分にも、今は何にもこだわってなどいないと、今なら言えるのです。

当時も、私は出会った生徒たちを、先生たちを愛していたし、貢献したいと日々を過ごしていました。だけどその愛が未熟であったために、与えれば枯渇し、環境にも左右されて、それが真の愛ではなかったのだとのちに分かりました。

そんなあの頃の私の記憶を回想し、「教師」のペルソナをかぶった一人の人間、星野絵美の姿をブログに綴りたいと思います。

初任の学校で4年間。目の前の生徒のためにと、教科指導、クラブ活動、学校運営など色々な仕事をこなしながら、土日もなく研修と実践に励み、自分の持てるものを教育現場に貢献しようと必死に勤めました。

それから転勤し、2校目の職場で妊娠と同時に働き方が変わっていきました。

職場まで車で片道約40分。その道のりを毎日出勤するというだけでもかなりの重労働でした「つわり」をはじめて感じたとき、腰椎から背骨にかけてびりびりしびれまともに座ることも出来なかった。

この状態で、授業が出来るのだろうか??数式を見るだけでも吐き気がした。(数学教師なのに?)少しでも空腹感を感じると吐き気がおそってくる。教室に着いたところで、50分立っていることもとてもしんどい。それなのに、チョークを持ち、無理をしてでも授業をしている自分がいました。こんなふうにしんどい思いをしながら、どうして自分をセーブできないのかも分からなかった。

同時にどうしても出勤できない日も何日もでてきた。どうやってその期間を乗り切ったのかいま、思い出せないくらい、しんどい時期だった。安定期、2010年の春になり、ようやく新しい命がお腹に宿ったことに喜びを感じられるようになった。

そして産休。生徒からも、先生からもたくさん優しいことばを掛けてもらったし「先生、元気な子を産んで早く帰ってきてね。」「そしたらまた、クラスに数学を教えに来てね」言ってくれた。職場の先生や生徒たちの期待にこたえなくちゃと、産休に入る頃にはもう復帰のことを考えていた。

無事に第1子を出産し、2011年の4月から職場復帰。育児のために、出来るだけ定時に帰るようにしたが、当然時間内に仕事が終わらない。

くたくたに疲れて子どもを寝かせたあとで、テストの採点などをしていることがほとんどだった。自分が無理をしているとそれを察知するように子どもが体調を崩す。熱を出して、夜泣きして、抱っこをしたまま朝を迎える。持ち帰った仕事も終わっていないまま、仕事に行く。あの手この手を使いながら、日々をやりくりしてきり抜けた。

2012年の春が来る頃には、おなかに第2子ができた。第1子の時と同様、つわりもきつかった。第1子の時も、第2子の時も、同僚の先生方に支えていただいて私はお勤めが出来たし、どれほど守られていたのだろうと、思い出すだけでも涙が出る。

教師時代の半分は、出産子育てともにあった。子育てにおいても教育においても同じく「子どもたち」を愛して接するだけでよいはずなのに両立するということがいかに難しいことであったか、と思い出されて身動きのとれないやりにくい感じとともに胸が詰まりそうになった。

回想は次回に続きます照れ

お読みいただき、ありがとうございます。

☆from 星野絵美☆

++++

このブログは、【1】~【40】の40のストーリーで2018年4月から9月にかけて展開してきました。

をもって一旦ブログ投稿を完結し、2018年9月より月・木の週2回のペースで再投稿を行っています。

より多くの方にこの情報をお届けできますように、そして、関心を持って下さる方がお一人でも

私たちとのご縁をもたれますようにと願いを込めて。

お問い合わせは

右矢印手紙

または

右矢印手紙クローバー

ブロガーが選ぶ超イカしたペルソナ10選

【「いい人」をやめて「シャドウ」を受け入れれば幸せになれる】

人は「役割」としての、
いくつもの顔を持っています。

いい人だと思われるために、
いつもモナリザのように微笑んでいたり、

自分を大きく見せるために、
威圧的な顔をしてみたり、

自分をごまかすために、
ちゃらんぽらんなふりをして、

ピエロを装ったり。

少なくとも、だれでもいくつかはもっている、
「素の自分ではない装った顔」

「素の自分ではない装った顔」=仮面のことを、

心理学では「ペルソナ」と言います。

「ペルソナ」をいくつも持つことは、
臨機応変な対応ができているということですから決して悪いことではありません。

ただいつの間にか、
場所や、コミュニティによって
自らいろんな仮面をかぶり、
どれが本当の自分かわからなくなってしまうと自分らしく生きることができません。

「嫌われたくない」

「大切にされたい」

エゴの欲求が強い人ほど、

「いい人」の仮面をかぶって疲れています。

「いい人」の仮面を脱げば、

ラクになれるのに。

「ペルソナ」とは反対で、
人には絶対に「見せたくない顔」
人には絶対に「見せない顔」も
私達は持っています。

それは「シャドウ」と呼ばれますが、
自分でもネガティブにとらえている自分自身の1面です。

あなたの周りには、
「どうしてもこの人だけは苦手」
という人はいませんか?

頑張っても、努力しても、
どうしても好意を持てない人。

それはあなたの
「シャドウ」を現わす人です。

多くの場合その人は、
あなたとは全く正反対なタイプの人
ではないでしょうか?

正反対の人というのは、
あなたが嫌っているもの、
抑圧されているもの、
抱えている痛みの要素を
見せてくれています。

例えば、
「甘えた人」が嫌いなら、
「甘えたいけど甘えられない自分」が
いるかもしれません。

「ズケズケとものを言う人」が苦手なら、

言いたいことを我慢しているのかもしれません。

着飾った女子が嫌いなら、
自分の女性性を受け入れていないのかもしれません。

そう、「シャドウ」は、
あなたの中にある
あなたが否定している要素を
わかる形で見せてくれているのです。

「どうしても苦手」という人が
目の前に現れた時が、
実はあなたの成長のチャンス!

もし目の前の苦手な相手を認め、
受け入れる事が出来たら、
あなたには深い癒しと成長が訪れます。

なぜなら,

相手が見せてくれるのは、
自分が今まで「否定してきた自分」

他人を見て、

「どうして空気が読めない人なんだろう!」

「自分のことばっかり!」

「思いやりのない人!」

と思ったときも同じです。

それらは全部『自分』です。

自分は合わせてあげているつもりかもしれませんが、

そう感じること自体、「自分もそう」だからです。

そんな腹黒い自分を認めたくなくて、

いい人のフリをして苦しくなってませんでしたか?

「そんな要素を持っている自分もアリかも」と許可を出せたなら、

あなたの自己肯定感はぐんと上がるからです。

「どうしても苦手な人」=シャドウな人を、嫌悪の対象とするか、
チャンスととらえるかは、あなた次第です。

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ペルソナ 食の、あたらしい風。

第482話/ウシジマくん68

滑皮が鳩山に呼び出されて、豹堂と暗に意志確認を行ってきた帰りである。鳶田の運転でホテルに向かいながら、どういうはなしだったか話す。鳩山の言い分は、身内なんだから仲良くやれ、揉め事を起こすな、ということだ。しかしじっさいには、彼は滑皮と豹堂をぶつけるつもりでいる。つまり、鳩山の言いたかったことは、「俺の見えるところでもめるな」ということになる。

滑皮もその意図がわからないでもないだろうが、とりあえず仲良くしろといわれた事実にちがいはない。鳶田は丑嶋を使って豹堂を殺そうとしていることを心配するが、もとより滑皮は、そのつもりで丑嶋を使っている。要は、丑嶋は身内ではない、他人なのだ。

部屋の前について、いつものように鳶田が見送る。滑皮は、いままでの癖で、つい「お疲れ。梶尾。鳶田」といってしまう。鳶田はいっしゅん反応するが、すぐに知らないふりをするのだった。

とっさに出てきた習慣的な身振りで、じぶんの深層が自覚されてしまうということはある。滑皮があのように梶尾の名前を呼んでしまうことは、彼の喪失を見た目ほどには実務的に処理できてはいないことを示している。滑皮じしんは、梶尾の死を豹堂殺害への動機とすることである種ヤクザとしての報いを梶尾に与え、同時に滑皮のなかで梶尾の死は関係性のなかの「ヤクザの死」として変換されたはずである。ところが、梶尾が当たり前にいた日常の記憶は、コンピュータから不要なデータを消去するようには消えてくれないのである。

シャワーを浴びている滑皮が壁を殴る。少なくとも二度殴っていて、かたい壁を殴ったために拳が破れて血が出ている。すぐよこにシャワーがあって、そこは鏡になっているが、このぶぶんはどういう素材になっているのだろうか。ささいなことではあるが、鏡のなかに滑皮の姿がうつっていない。あとで見るが、滑皮にとってこのようにホテルの部屋のなかで、全裸になり、鏡の向こうのイレズミを確認する作業は、一種の確認である。それが見失われているのである。

水道で拳の血を洗う姿は、かつて、おそらくヤクザの仕事としてははじめて人を殺したときのあのものに重なるぶぶんがある。あのときは掌から血が出ていたが、滑皮もその感触をちょっと思い出しているのかもしれない。

さて、柄崎母の誕生会に乱入してきた戌亥である。戌亥はまず尾行を心配している。丑嶋は、尾行の心配はなし、知人から借りた代車でGPSも大丈夫なはず、というふうに説明する。酒が入っているのもあるだろうが、今回の丑嶋はよくしゃべる。そうか、戌亥は、解説キャラではなかったのだな。丑嶋とか滑皮とか、ぜんぜんしゃべんなくてなに考えてるかわからない人物のくちを開かせる位置なのだ。

そもそも尾行の心配をして生きていることがふつうではない。戌亥は、何度目かの「街を出ろ」をくちにする。たとえば、中国に行けば借金まみれの労働者が道にあふれている、丑嶋なら言葉もすぐ覚えるだろうから、そういうところで再起をはかってみてはどうかと。

それはまあいい。丑嶋にはどうしても聞きたいことがあった。なぜ滑皮についたのかと。もちろん丑嶋も、戌亥が滑皮と関係していることは知っていただろう。というか、戌亥にはそれが仕事なので、関係するなというのがむちゃなはなしである。丑嶋がいっているのはこれまでのことではなくて、いまの決定的な状況に至るまでのことだ。たとえば、旧シシックの金や隼人が奪った鼓舞羅の金などを丑嶋が隠し持っていたことを、滑皮は知っていた。それから、丑嶋の行動を制限しているもっとも大きなものとして、遠くにいる高田と小百合である。甲児は彼らの居場所を知っていた。おそらく滑皮に聞いたのだろう。では滑皮は誰から聞いたのか。こうした具合に、ちくちくと、丑嶋は行動をとりにくくなっていったのだ。これまでの緊張状態で、戌亥が職業的八方美人でいた状況とは、ちがってきているのである。とはいえ、その原因は、滑皮がいよいよ本気を出し始めたというところにあるだろう。戌亥としては、滑皮のおそろしさを知っているから、聞かれたら応える、というところだった。しかし、彼は情報屋であって誰かのスパイではなかったのだから、逆にいえば「聞かれなければいわない」ものだったのだ。そのバランスが崩れたのは、滑皮じしんが崩そうと動き始めたからなのだ。戌亥だけを責めるのも酷なはなしである。

しかしげんにそうして丑嶋が追い詰められていることはまちがいない。弱みでも握られているのかというと、そうでもない。戌亥は、丑嶋は自分のためだけに生きているが、滑皮は広く全体を考えている、という、よくわからないこたえかたをする。だから滑皮についたということなのだろうか。滑皮は裏の世界で天下をとるかもしれない。たぶん、そのほうがじぶんに得だというより、つかないのは損、あるいは実害に至る、というようなニュアンスだろう。

柄崎と柄崎母はそのまま眠ってしまい、夢のなかでごはんを食べていて和む。が、ふたりの激論はつづく。街を出ないなら、やはりヤクザになるべきではないか。丑嶋は、いまさらそんなことしたら笑われるという。「親分が言うことが絶対の世界なんて俺には到底無理だ」と。ここでは暴排条例にも触れられる。携帯持っただけで詐欺になるヤクザが、どうやって天下をとるのかと。稼げないのに上納金は大きく、週の半分は電話番してて仕事もろくにできない。まあ、仕事人間というか、合理的な丑嶋からしたらいかにもアホらしい。それに、丑嶋は客としてのヤクザもたくさん見てきた。クスリ漬けの女に食わせてもらうくらいしか生きるすべがないような連中ばかりだったのである。丑嶋の世界には、滑皮が梶尾たちの前にあらわしたような「かっこいいヤクザ」の姿は、少しも浮かんでこないのである。

さらに丑嶋は、「滑皮の野郎がなんでヤクザになんかなったのか気が知れない」とまでいう。この発言は、少し貴重である。なぜなら、この語調からは、感情移入のよすがが見て取れるからである。丑嶋にとって滑皮は、圧倒的に理解を絶した他者、ではないのだ。たとえばこのはなしを、総理大臣についていっているものと変換してみれば、その奇妙さがわかるかもしれない。

戌亥は、滑皮のことは好きではないという。丑嶋のほうがよほど大切な友達だ。だが、と続くのだろう。戌亥は滑皮のことばを思い出す。滑皮は、出世にはそんなに興味がない。ただ、「滑皮のところはヤバイ人間揃いだ」とおもわれたら最高だ。なぜなら、「ヤクザは究極の話暴力だ」からだ。理解を絶した狂人のようなあつかいでちょうどいい。そうすれば、座布団も金も自然についてくると。

ベランダで話しているふたりは、向かいの団地を見ているかっこうだ。実家の団地にいたころの戌亥は、窮屈でそれが嫌いだった。しかし探偵業をはじめて、ひとの堅実な生活を崩すようなことばかりしていると、ふと、団地のカーテンの向こうにあるおもいを馳せてしまうのである。

「みんな素の顔に無自覚で 街中歩いてるけど、

あの明かりの向こうでは

それぞれの役目をちゃんといきているんだなぁって」

そうしたところに電話がかかってくる。むろん滑皮である。

つづく。

やれやれ、滑皮、丑嶋、戌亥と、最重要人物3人の描写が深まった重量級の回であった。

滑皮は、なぜだか丑嶋が柄崎家でお祝いをしていることを知っている。戌亥が教えたのかもしれない。と同時に、尾行など心配ないといっていた丑嶋は、電話を見る前からそれが滑皮だと理解していた。つまり、戌亥がきた時点で、ここの場所は割れたということを、丑嶋は悟っていたのである。

滑皮は、いつもの癖で梶尾の名前を呼んでしまった。そのときに、滑皮の内側に抑圧されていた身体性のようなものがあたまをもたげている。ひとことでいえば、彼の情念である。滑皮は、生を全面的にヤクザとして貫徹することで、いまのありようを確立している。そのしるしが、イレズミと自重トレである。自重トレでは、存在そのものが負荷となる。筋肉は、次に同様の負荷がかけられても対応できるように成長する。滑皮は、背負うものも多いその大きな存在そのものに負けないよう自重トレを行うのである。

ホテルでのイレズミ描写は、たいがい鏡とセットである。ふつう、風呂に入るときひとはからだになるので、それだけのことではあるのだが、滑皮は鏡を経由して、じしんのフィクションとしてのありようを確認するのである。これを、ジャック・ラカンでは鏡像段階という。むろん、厳密には、幼児の人格形成期に行われることではあるが、滑皮ではヤクザの人格が後天的に装着されたものでもあるため、そう遠い指摘でもないだろう。ラカンでは、自我というものはあらかじめ備わっているものではないのである。鏡像、あるいは鏡像のようなものを通して、身体を操作する感覚と等しい動きをとるなにかと同一化することで、いわばフィクションとして自我が形成されるのである。身体の操作の感覚に納得がほどこされる、というようなところだろうか。

滑皮と丑嶋は本質的に同根である。今回の丑嶋の、なぜ滑皮がヤクザを選んだのかわからない、というような発言もそうしたところから出ているだろう。ふたりは、父なるものをどのようにあつかうかという点で分岐した。丑嶋は、今回もそんなことをいっていたが、搾取するものとしての父、そして父子の構造を徹底的に拒むことで、いまのポジションに到達した。たいして滑皮は、丑嶋と同じく父にいい記憶がないにもかかわらず、それを属人的なものとして処理したか(構造ではなく、じぶんの父が悪い)、あるいはそう思い込もうと努力しているのか、父子の関係に美しいものを見出そうとしている。それが、理不尽に耐えながら熊倉に敬意を示し、それじたいを梶尾たちに見せつけ、じしんもかっこいい兄貴でい続けようとしたことの原動力だ。こういう気持ちを丑嶋が理解できるはずはないのである。丑嶋は、父という概念を捨て去ることでウシジマくんになったのだ、そんな彼が、父に敬意を払う、ということに美学を見出すありようを理解できるわけがないのだ。

そして滑皮は、ほんらいの父との関係を棄却し、あらたな関係を人工物に求めるためか、生を全面的にヤクザなものに変えていく。これを、いままでは「ハレ」と「ケ」を用いて考察してきた。ふつうの人間の生活でも、たとえば仕事をしているときと家で家族と過ごすときでは心持ちが異なっているだろう。彼らはそれが徹底して分離している。丑嶋も、ウシジマくんとして、かなり徹底して「ハレ」にいるように努めているが、彼にも母(うーたん)という安らぎの場所がある。しかし滑皮はそうならない。いま考えついたことだが、それには理由がある。彼は、「ケ」を思い出すわけにはいかないのである。なぜなら、彼の原風景に生きている父は、否定すべきものだからだ。父を肯定する「ハレ」の場所に立ち続けるには、生を全面的にそういうものにし、もしハレとケのちがいがあるのだとしても、それは一次的な「ハレ」の内側でわかれるものでなければならないのである。

そうして、たしかにじぶんはヤクザである、ということを鏡像段階的に確認するために、鏡の前でイレズミが示される。その前で、今回の滑皮は冷静を保てない。たんなる作画の揺れかともおもわれるが、滑皮の足がうつっていても不思議はない鏡に、それがないのだ。彼はいま、鏡の向こうにいるじぶんを見失いつつあるのである。なぜかというと、梶尾への情念が、全面的に「ハレ」であるところの「ヤクザ滑皮」のなかにはありえないことだからである。梶尾の死は、ヤクザの死である。滑皮はおそらく、それを心理的な口実、大義として、豹堂殺害をいよいよ実行に移そうとしているわけである。その意味で、梶尾の死は報われている。梶尾は、ヤクザとして、滑皮の役に立っているわけだ。親分としての滑皮は、それを過不足なく拾うだけだ。しかし、じっさいの人間どうしの関係では、そのようにひとの死を処理することはできない。保険金をもらったり、四十九日がすぎたりしたら、きれいさっぱりそのひとの記憶がなくなってしまうわけではないからである。しかし、「ハレ」のなかにいる「ヤクザ滑皮」には、ほんらいそうした情念はありえない。それが兆してしまった。これが、滑皮を強く揺さぶるのだ。

今回は戌亥経由の滑皮描写もあった。発言じたいもそうだが、滑皮がこうしたはなしを戌亥にしているというのも考えてみればおもしろい。彼は、一日のどの瞬間を切り取っても「ヤクザ滑皮」である。ヤクザのものは、滑皮を、尊敬したりうとましくおもったりするし、カタギのものは、知らないか、恐れ、無
係でいたいとおもうだろう。事実として、滑皮に「ヤクザ滑皮」として接するものしか、彼のまわりにはいないのである。しかし、ふわふわとどこにも腰をすえない戌亥は、いかにも話しやすい。今回丑嶋がやたら饒舌だったのもそういうことだろう。いってみれば戌亥は、なにものでもないのである。だから、みんなけっこうぽろっと本音が出てしまう。このことはこのあとさらに考える。

そして滑皮がなにを語ったのかというと、「ヤクザは暴力」という、飯匙倩と同じことなのであった。いずれの場合も、ヤクザは「かかわったらたいへんだ」という具合に、相手の想像力に訴えかけるしかたで仕事をする。だから、なめられる、つまり、潜在する暴力の量を低く見積もられると、仕事ができなくなる。ハブが丑嶋にこだわったのはそういうことである。だから、このはなしはヤクザには真理だろう。問題なのは、戌亥がなぜこの場面を、このタイミングで思い出したのかということだ。つまり、戌亥は滑皮のどういうところをみて、天下をとる、極端だと感じたのか。出世には興味はない、というのはまあまあ意外だが、暴力のくだりなどは、ハブサンを踏まえた我々からすると、案外すんなり受け止められる言い分である。重要なのはたぶん、狂人扱いでいい、というところなのかもしれない。逆に言えば、なぜひとは、狂人扱いを嫌がるのだろうか。それは、そうではないからである。狂人でないのにそのような扱いをされたら、もし表面に出ている行動がそれにちがいないものなのだとしても、<ほんとうはそうではないのだ>という気持ちは、当然出てくるだろう。ここには、「ほんとうのわたし」を正しく見てもらいたい、という欲望が感じられる。別に難しいはなしではない。じぶんのことをバカだとはおもっていないところでバカあつかいされたら、そんなことはないのにと、誰だっておもうのだ。しかし滑皮はここから先を切り捨てる。「ほんとうのわたし」は、鏡の向こうに、イレズミとともに確認できる「ヤクザ滑皮」であり、それを見てひとがおそれ、狂人扱いをするなら、それは正しい反応なのだ。彼にとっては鏡の向こうのじぶんこそが全体であり、その内側、「ほんとうのわたし」などというものは、「ケ」とともに生の外側にしめだしてしまったのだ。鏡像段階ではフィクションとして自我が構築される。滑皮にとっては、鏡の向こうに見えているそれが、そのまま、他人の見ているわたしにほかならないのである。

今回は戌亥の描写も深まった。なんでもない描写だが、引用した団地のくだりである。戌亥は、カーテンの向こうにある家庭において、ひとびとがそれぞれの役目を果たしているという。「みんな素の顔に無自覚で街中」を歩いているというのがちょっとよくわからないが、まあ、ぼーっとなにものでもないような顔でいる、くらいのことだろうか。認識としてはわからないことではないが、ふつう、これは逆ではないだろうか。これは要するに「ハレ」と「ケ」が、カーテンを境に分節しているというはなしなのだが、個人主義的な、一般の認識では、まず「ケ」があって、必要に応じてペルソナが装着される、それぞれの社会的役目を果たす、というのが、通常の見方ではないだろうか。

だが、以上の考えを踏まえていえば、わからないことではない。丑嶋も滑皮も極端だ、というはなしは、要するに、ふたりともじぶんの役目を徹底的に貫きすぎだ、というはなしなのだ。そのいっぽうで戌亥は、職業上の理由もあって、むしろなにものでもないことが望まれる。尾行などしているときに、存在感いっぱいでは成り立たないからだ。どこにも属さない戌亥は、丑嶋の依頼も、滑皮の依頼も、等価にこなすことができた。ある意味では戌亥もまた、徹底して「ケ」を排除して、仕事に努めてきたのだ。本来であれば、「ケ」に属する丑嶋の肩を持ちたいところである。しかし滑皮へのこわさもあってそれはできない。結果、彼は滑皮とは逆に、生を全面的に漂白して、なにものにもならないことで、裏社会をサバイブしてきたのである。そんな彼は、社会のシステムにおいてそれなりになにものかであるだろうひとびとが、「素の顔に無自覚で」としかうつらない。それは、彼らの背景に「それぞれの役目」の備わった「ケ」を見て取れるからである。戌亥は、仕事を行ううえで、なにものでもないものを貫徹する。しかしそうするためには、私情をはさむことはできない。結果、彼もまた「ケ」を失う。そうしたうえで周囲を見てみると、同様にして社会で生きているものたちがぼんやり歩いている。戌亥には、じぶんがそうであるから、彼らもまたなにものでもないものにしか見えない。しかし、それなのに、彼らには「ケ」があるのである。

おそらくこれは、戌亥が、結果としては滑皮に加担することになりつつある現状によって呼び込まれたものだろう。どこにも属していないはずなのに、事実としてはそうではなくなりつつある。だとするなら、じぶんはなんなのだろう。こういうところで、抑圧してきた「ケ」が回帰しつつあるのだ。

※noteに真鍋昌平論を書きました!

ブログとは異なったアプローチで書いてるので、超長いですが、よろしくお願いします。

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