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昨夜の事件から、ケッセルバッハ殺しの事件のときも、共犯者がいたことが判明する。
そしてルノルマン部長の部下の一人が、共犯者であると思われるバーベリ少佐を見つけるが、セルニーヌ公爵と知り合いであるジュヌビエーブがいる学校へ行ったという。
それを聞いたルノルマン部長は大急ぎで、ジュヌビエーブのいるガルシュへ向かう。
部長達が車で向かっていると、前に馬車が走っているのが見えた。
そして、若い娘が馬車から飛び降りる。
この若い娘がジュヌビエーブだった。
部長はそのままバーベリ少佐が乗っている馬車を追跡し続け、やっとのことで馬車を捕まえるが、中には誰にも乗っていなかった・・・。
追跡中、道から馬車が見えなくなった数秒の間に少佐は逃げたに違いなかった。
ジュヌビエーブが刑事に付き添われてやってきたが、その男はバーベリ少佐と名乗らず、
リベイラというスペイン人になりすましていたことが分かる。
彼女の証言によると、2週間ほど前から彼女の学校に現れ、フランスの教育制度を見学したいと
言っていたらしい。
そして、知り合いの女子に教育を受けさせたいので、その子に会ってほしいと言われ、馬車に
同乗したということだった。
部長は、彼女にリベイラについて、何か他に手がかりになるようなことはなかったかと聞くと、
タイプライターを貸してほしいと頼まれ、彼がどこかに手紙をだしていたことが分かる。
調べてみるとその手紙は、新聞社宛のもので、「シュタインウェイク氏の住所を知っているものを求む」という広告だった。
シュタインウェイクは1時間前に部下が捕まえていたので、これで犯人も捕まえられる!と
部長は内心ほくそえむ。

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松本隆といえば、昭和から現在に至る、稀代の作詞家といわれます。2100曲以上の詞を400組近くのアーティストに書き上げ、130曲以上のベストテンヒット、うちチャート1位50曲以上を世に送り出した実績は、比類なきものとされます。

ただ自分は、作詞家としての松本隆をよく知りません。関心があるのは、はっぴいえんどの松本隆です。高校生だった当時、リアルタイムで聴いていました。しかしまだマイナーな存在だったこともあり、メンバーの実像はよくわかりませんでした。時は遷り昨今の松本隆は、メディアに頻繁に登場しています。活字やインタビューなどで、自身の若かりし頃を語ることもしばしばです。はっぴいえんどに心酔していた自分にとって、興味深いことです。

そこで以前荒井由実で試みたと同様、「松本隆ヒストリー」を書いてみることにしました。本や雑誌、ネットなどに散らばる、彼のこまかな履歴を拾いあつめ、はっぴいえんど解散までをまとめてみたのです。具体的には、その誕生から高校までの成長過程と、細野晴臣と出会ってからは大瀧詠一や鈴木茂らも含め、その人間的な関係性に話を絞りました。詞作のエピソードは採り入れましたが、難しい創作論などには触れていません。はっぴいえんどヒストリーでもありません。あくまで、松本隆の人となりを浮き彫りにすることを目的としました。

松本隆やはっぴいえんどのファンなら、どこかで見聞きした話の寄せ集めです。下記の引用元からつまみ食いし、ただ列挙しただけのことです。でもデータ量で勝負したので、ご存じない話もあるかも、です。松本隆の、その若き日々に関心がある方々に読んでいただければ幸いです。

参考とした 本 雑誌 サイト

『定本はっぴいえんど』大川俊昭編 白夜書房

『はっぴいな日々』レコードコレクターズ増刊

『風都市伝説』北村正和編 音楽出版社

『成層圏紳士』松本隆著 東京書籍

『風街詩人』松本隆著 新潮文庫

『BRUTUS』2015年7月号 特集 松本隆

『松本隆対談集 KAZEMACHI CAFÉ』ぴあ株式会社

『レコードコレクターズ』2017年10月号 作詞家・松本隆の世界

『大瀧詠一Writing&Talking』白夜書房

『阿久悠と松本隆』中川右介 朝日新書

『音楽王 細野晴臣物語』草野功編 シンコー・ミュージック

松本隆は1949年7月16日、東京の青山に生まれる。漢学者の大叔父が名付けた。生家は高台にあり、よく晴れると富士山が見えた。しかし松本が中学のとき、東京オリンピック前の都市計画で立ち退かされる。敷地のあった場所は、現在キラー通りと呼ばれる道路になっている。故郷をなくした喪失感を松本は、はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』であらわした。

両親はともに群馬の出身。若いときに上京し三人の子をもうけた。父は大蔵省の官僚だった。戦時中は学徒出陣、戦闘機に乗る予定だったが、訓練中に事故で足を負傷、出陣することなく復員した。絵画や詩が好きな父だったが、音楽にはさほど興味がなかった。2015年に発売された松本作詞『驟雨の街』。この”驟雨”は、松本の中学時代、父の本棚にあった吉行淳之介の同名小説からとった。

母は伊香保の出で、写真館の娘だった。美人で国鉄のポスターモデルにもなる。相当なおてんば娘でもあり、男装して神輿を担いだ。戦時中は学徒動員で戦闘機造りに従事した。料理が苦手で、台所に立つ時期に戦争があったからと言い訳した。

子供のころ松本は、春、夏、冬の休みごと、母の実家に預けられた。学校が始まる直前まで休みをまるごと伊香保で過ごし、東京の真夏は大きくなるまで知らなかった。はっぴいえんど『夏なんです』は、石段や鎮守の森のある伊香保が原風景。冬にはスケートで、凍った湖を滑った。

伊香保の祖父は、明治三十年代から三代続く写真館を営み、町の有力者でもあった。ハイカラな人で、群馬県で二番目にクルマの免許をとり、初孫の松本には、ひらがなより先にローマ字を教えた。伊香保の家にはラッパのついた蓄音機があり、松本は音楽に興味を抱くようになった小学生時代、映画音楽やクラシックをここで聴き始めた。松本の音楽好きはこの祖父からの遺伝という。

松本は長男。ひとつ下の弟の裕はレコーディングエンジニアで、斉藤由貴の『卒業』を担当。若い頃は『ほうむめいど』というバンドを立ち上げ、兄と同じくドラマーで活動していた。はっぴいえんどの前座をつとめたり、セッションメンバーとしてはっぴいえんどに加わり、兄とツインドラムの競演をおこなったこともある。

妹の由美子は生まれつき体が弱かった。その誕生以来、両親の愛情はすべて妹に注がれるようになる。松本は寂しさより、五歳ながらも長男を自覚するようになった。妹は走ることも泳ぐことも医者から禁じられた。松本はふたつランドセルを持ち、妹は母に背負われ、区域外の遠い通学路を一緒に通った。しかし1980年、心臓を患い26歳の若さで亡くなる。大瀧詠一に書いた『君は天然色』は、妹を偲び綴られた。

生まれた家の隣はキリスト教の青山教会で、庭にブランコやジャングル・ジム、砂場があった。そこで幼い松本は、近所の子供たちと遊びに興じた。教会内には幼稚園もあり、必然的に通うことになる。なにしろ隣のこと、始業のチャイムが鳴ってから家を飛び出すこともあった。

小学校時代

松本少年は、学区外の青南小学校に入学した。当時は規則がゆるかった時代で、越境入学児は大勢いた。1年生のとき、買ってもらったばかりの自転車もろともオートバイにはねられ、生死をさまよう大けがを負う。

最初に読んだ文字の本はSF小説の『地底王国』。オートバイ事故で二か月入院したとき、退屈だろうと叔母が買ってくれた。知らない漢字ばかりだったが、ルビを頼りに読み進んだ。以来松本は読書好きな少年となった。二冊目に読んだのが江
戸川乱歩の『少年探偵団』。乱歩小説の舞台が住んでいる青山だったことにあり、少年探偵団の十数巻すべてを読んだ。

一方でカブ・スカウト、ボーイ・スカウトにも入り、アウトドア志向の活発な少年でもあった。原宿の東郷神社の池に、ハックルベリー・フィンをまねて、手製の筏を浮かべたこともある。仲間のみんなで乗るとすぐ沈んだ。全身ずぶ濡れになり、池の水の臭さに閉口した。

読書は江戸川乱歩からエドガー・アラン・ポーに移り、アルセーヌ・ルパンを経て、コナン・ドイルなど推理小説の世界に耽るようになる。さらに父の本棚にあった、シャルル・ピエール・ボードレールの詩集『悪の華』にも手を伸ばし、怒られた。詩人の生誕から死までを退廃的、官能的に表現された本だった。背伸びしすぎて意味はわからなかったのだが、この手当たり次第の乱読を親が見かね、少年少女用の日本文学全集と世界文学全集を買ってくれた。それぞれ全50巻以上もあったが、すべて読んだ。松本少年は食事の時間も忘れ、七つの海を股にかけるヒーローとなった。

5年の時、親友となる石浦信三と出会う。クラスは別だったがともに本好きで、図書室で仲良くなった。松本は円周率の小数点以下十数桁くらいまで言えたが、学年で算数が1番の石浦は、さらに多くの桁を知っていた。石浦は松本が読んだ本も読み終えているなど、お互いが刺激し合った。石浦はのちにはっぴいえんどのブレーンとなる。

同じく5年の時、家にステレオが置かれた。父の職場に電気工作マニアがいて、その作品を譲り受けたのだ。ところが家にはレコードがない。父母とも音楽に関心がなかった。松本は西部劇映画の『アラモ』『荒野の決闘』『アラモ』などにも夢中になっていたこともあり、主題曲のソノシート(レコード)を買ってもらい聴いた。音楽への関心は、これら映画音楽が入口となった。

松本は漫画も大好きな少年だった。文字を覚える前から読んでいた。小学校低学年から読み始めた『少年サンデー』や『少年マガジン』を、作詞家になってからも読んでいた。一時期は、自分の精神年齢はこれ以上伸びないのかと、本気で悩んだ。

漫画は描くのも得意で、学校の休み時間に人気漫画『まぼろし探偵』の絵を描いていると、まわりに人垣ができた。絵画は父の世界美術全集から、ミロやカンディンスキーが好きになった。抽象性の強いものに魅かれ、上野の美術館であったピカソ展では、感動のあまり涙があふれて出た。

中学校時代

競争率26倍の慶応中等部を受験、合格する。偶然にも石浦が入学していた。クラス替えは毎年あったが、ふたりは3年間とも同じクラスとなる。一緒に学校から帰るなどさらに親密な仲になり、図書室の本を片っ端から読む競争もした。ランボー、ボードレール、ポー、コクトー、ジャン・コクトー、ラディゲなどを、乱読、斜め読みした。お互いに読んだ小説や詩の自慢や情報交換、さらには自分たちも小説や詩を書き、批評し合った。日本の詩人は好きにはなれなかったが、宮沢賢治と中原中也は別格だった。松本の教養は石浦とともに、小学5年ころから中学1、2年時に形成された。

音楽は、カッコいいという理由だけで、マーラー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラビンスキーなどクラシックを聴いた。チャイコフスキーやベートーヴェンは月並みだと馬鹿にした。シェーンベルクまでいくとよくわからなかった。余談だが、昨年あったテレビ番組で、松本が当時の読書や音楽の話をすると、対談相手の斉藤由貴が、「そんな同級生がいたら、いじめたくなっちゃう」と突っ込んでいた。

背が高かったので勧誘され、バスケット部に入部した。二年まできつい練習を体験。真夏に地方で合宿したときは、スポーツドリンクのない時代、生ぬるい水を飲んでは吐きながら、体育館を飛び回った。得意な絵も捨てがたく、形だけ美術部にも入った。

松本が中1のとき、一家は青山の家を立ち退き、麻布笄町に引っ越している。

ビートルズ

中2の終わりごろ、クラスの事情通がビートルズの存在を皆に話し、レコードを学校に持ってきた。ものわかりのいい英語の教師が、授業で使うポータブル・プレイヤーで、その『抱きしめたい』をかけてくれた。この一瞬で、松本隆というそれまでの文学少年&バスケット少年は終わりを告げる。マーラーやドビュッシーも消え去った。松本の音楽のすべては、ビートルズなどイギリスのロックに代わった。そして自分もやりたいと思った。どうやってやるかわからなかったが、やりたいと強く思った。

プレスリーなども聴いてはいたが、それほど感じることはなかった。のちに知り合う1、2年年長の細野晴臣や大瀧詠一はプレスリーにはまった。わずかの年齢差で、松本はアメリカンポップスや黒人音楽の洗礼を受けなかった。上に兄弟がいれば、プレスリーを好きになっていたかもしれない。ただはじめて小遣いで買ったレコードは、リトル・ペギー・マーチの『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』のシングルで、このあたりは大瀧と重なり合うという。

バンド結成

3年の修学旅行は長崎だった。ここで仲間と盛り上がり、5人でバンドをつくることになる。誰も楽器は弾けなかった。カッコいいドラムポジションはみなの奪い合いになったが、松本はジャンケンで勝つ。成績表のAの数をかけて、親にドラムを買ってもらう。ギターも試したがすぐあきらめた。音痴じゃないが、ヴォーカルは好きじゃなかった。のちに細野晴臣の前で歌ったが、嗤われた。

バンドのスタイルは、他の皆がやっていたビートルズはやめた。同じリヴァプール・サウンドのデイヴ・クラーク・ファイヴを真似ることにした。理由はカッコよかったから。すべての基準はカッコよさだった。松本らメンバーのルックスもまぁよかった。というよりルックスオンリーだった。後輩の女の子が騒ぐのがうれしかった。

このバンドでは『ファントマのうた』というのオリジナルをつくった。松本が詞を書いた。フランスの『ファントマ
光石火』という怪奇映画をもじったもので、修学旅行で行った長崎でつくった。むろんお遊びだが、コクトーの匂いを織り交ぜた、一応これが松本の処女作ということになる。しかしこのバーバリアンズと名付けられたバンドは、練習だけで自然消滅してしまう。

部活

部活は3年生になるとき体育会系が嫌になり、バスケット部は退部した。同時に美術部の部長になる。部会には一度も出たことはなかったが、なぜか指名された。画家になろうと考えていたほどの才能が認められたのか。

ところが石浦に誘われ方向転換、美術部もやめ放送研究会に入ってしまう。ここでは昼の校内放送の原稿を書いたり、ディスクジョッキーを適当にこなした。松本は学園祭に放送劇として、安部公房『赤い繭』の戯曲を書いたが、顧問だった古文の教師に前衛過ぎる、もっとやさしく書くよう却下される。「若いときはこういうものを書きたがるんだ」と言われ、いたく傷ついた。

高校生時代

慶応高校に進むと、石浦とはクラスが分かれた。疎遠になり、たまに会ってお茶を飲む程度になった。石浦は学生運動に走ったのだが、松本は関心がなかった。世の中は暴力では変わらない、音楽なら変わるかもしれないと考えていた。

部活は中学時代の友人が、体を鍛えようと体育会に誘う。何部かわからずついていったら、レスリング部だった。来た以上もう逃げられず、やむなく入部した。しかし嫌でたまらず、かといって辞めるといったら体育会のこと、なにをされるかわからない。それでも半年後、配られたユニフォームを見て着る気が失せる。意を決し退部を申し出た。理由はバンドをやることとした。ならば日本一のバンドになる覚悟はあるかと問われた。ここで逡巡したら辞めれない。やむなく「なってみせます」と宣言した。

バーンズⅠ期

松本は新しいバンドを結成する。レスリング部で辞めた理由を周囲は知っている。その手前もあったが、夏に千葉県館山の海の家で、3歳ほど年上の上手なバンドを目の当たりにしたことも大いに刺激になった。それまでのバンドは遊びでしかなかった。活動を本格的なものに変えることにした。

バンド名は『バーンズ』。イギリスのインストゥルメンタルバンド、ザ・シャドウズを真似た。腕のあるメンバーをあつめた。放送研究会で一緒だった伊藤剛光がギターで、松本がドラム、あとリードギターとベースの4人。おそろいのユニフォームまでつくり、1年生の間は練習に専念した。松本はいつもドラムのスティックを持ち歩き、漫画雑誌を叩いて練習した。松本「厚めの雑誌はいい音がした」。

のちに細野晴臣が加入することになるのだが、それまでのこの時期をバーンズⅠ期と呼んでいる。細野は言わせるとⅠ期は金持ちの子弟が集まった、慶応の坊ちゃんバンドということになる。

2年生の頃には相当上達、パーティー演奏のバイトをするようになった。池袋のヤマハにWISというバンドの登竜門があり、ここでの最上級に達する。その渋谷店がオープンしたとき、道玄坂に面したバルコニーで演奏もした。またドラムメーカー主催の全国コンテストで優勝。そのご褒美でテレビ朝日『ヤング720』に出演した。レッド・ツェッペリンの『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』を演奏し、松本はドラムソロを披露した。

バーンズは1967年、ヤマハ主催の第一回ライトミュージックコンテストの関東甲信越大会に出場し、ロック部門の第3位にもなっている。このときフォーク部門で第2位だったのが、早川義夫率いるジャックスだった。松本はその『からっぽの世界』を聴き、日本語のロックの可能性を見出す。松本はこの頃、コピーにも嫌気がさしていた。ジャックスの日本語での、自分たちの言葉での歌に松本は衝撃を受けた。

時あたかもグループサウンズの全盛期だったが、それは従来の歌謡曲と何ら変わらなかった。松本にとってグループサウンズは、自分らの音楽にとってまるで関係ないものだった。音楽ですらないと思っていた。ああはなりたくない、無関係のものだった。関西フォークも嫌いだった。のちに高田渡と知り合ったが、『自衛隊に入ろう』も大嫌いだった。岡林信康も理解できず、のちにバックをやるとは思わなかった。

細野晴臣

慶応大学商学部に進学する春、バーンズのベースが勉強のため抜けることになる。高校を卒業したので、これからはディスコなどでバイト演奏して稼ぎたい。ベースの欠員を埋めるため松本は、細野晴臣に電話をする。面識はなかったが、天才ベーシストとの評判を耳にしていたのだ。細野はこのとき立教大学3年だった。

翌日、原宿駅前の喫茶店で会うことになった。高校を卒業したての松本は、ピン・ストライプのスーツにレイバンのサングラス姿で細野の前にあらわれた。それも遅れてやってきた。勧誘する立場として虚勢を張った。生意気な気障野郎だと、細野は思った。その細野は髭と髪を伸ばし、齢二十歳にして人生を悟りきったような容貌だった。まるでお爺さんだと、松本は思った。

挨拶もそこそこに松本は、ヤマハのコンテストに出て賞をもらったとか、テレビでドラムソロをやったなど、自慢話を披露する。細野は閉口したが、金もうけのため誘いに乗ることにした。そしてベースの腕を披露するため「今から道玄坂のヤマハで弾く」と、原宿から渋谷まで一緒に歩いた。細野は楽器売り場にあるベースでビートルズの『デイ・トリッパ―』を弾いたが、三回やって三回ともつっかえた。いいところを見せようと難しい曲を選んでしまった。

不安になった松本は、「いちおうはオーディションをしたいんだけれど」と、課題曲を細野に告げる。失礼な奴だと細野はむっとしたが、目にもの見せてやろうと練習し、後日、バーンズの伊藤剛光の青山の超豪華な家にベースを担いで行った。前回とは打って変わった細野の、生き物のように動く指に松本らメンバーは驚き、深い音楽知識にも敬服した
初対面でつっぱったのも、細野の実力になめられまいとする必死の抵抗だった。「バンドをやるには髪が短すぎる」と言われた松本は、カツラをかぶることになった。

バーンズⅡ期

こうしてバーンズⅡ期がスタートした。メンバーは、細野晴臣ベース 松本隆ドラムス 伊藤剛光リードギター、そこに小山高志というヴォーカルが加わり、インストゥルメンタルバンドを脱することになる。バーンズは青山や赤坂のディスコで毎晩、朝まで演った。

バーンズⅡ期の活動期間は1年間だったが、大学は松本の入学時から学園紛争で休校ばかりだった。ロックアウトがなかったら、バンドなんかやっていなかった。しかし松本は、中学の頃から自分はサラリーマンには向いていないと感じていた。人に頭を下げるのが嫌いだった。就職する気はなかった。自由業しかないと思っていた。はっぴいえんどを解散して、無為の日々を送っていたとき、あるレコード会社からディレクターにならないかと誘われた。未来を保証するとの言葉に心が揺らいだが、翌日断った。このときの一度だけは迷った。

それでもやはり松本は、細野と出会わなければ銀行か商社に就職していたという。細野は松本の母親に呼び出され、「うちの息子を悪い道に引き込まないでくれ」と懇願されている。官僚の父は泣いていた。しかし息子は就職どころか、大学を中退してしまう。松本を音楽の道に引きずり込んだ当の細野は無事卒業したというのに。おまけに細野は自分の卒論作成を、松本に協力させている。社会学の担当教授に「これからはっぴいえんどという、世にも大事なバンドをやる」と、松本が書いた詞を教授に提出したのだ。細野によれば、教授はその詞にいたく感激したという。

詞作

松本が大学2年の時、細野に詞を書くよう勧められる。それも日本語の詞を。次のエイプリル・フールで細野は英語詞を強要したのだが、バーンズでの細野は日本語の歌を望んだ。詩は好きな松本だが、音に乗せることは考えなかった。ジャックスを聴き、刺激は受けていたのだが、具体的な方法がわからなかった。中学校の時の詞は遊びだった。細野はサイモン&ガーファンクルを訳すことを提案、松本は辞書を片手に、その夜から『サウンド・オブ・サイレンス』に取り組んだ。

松本は外国の歌詞では、ジョン・レノンとボブ・ディラン、そしてポール・サイモンが好きだった。ポールは特別だった。しかし難解で、日本語にうまく置き換えられない。大学の、東洋英和からきた、クラスで英語が一番の女の子に訳してもらった。松本はビートルズやプロコル・ハルムも聴きなおし、詞の研究を重ねた。

こうして松本の詞作が始まったのだが、曲も一度作ったことがある。しかし細野に嗤われ、以来やめた。天才がそばにいると、音楽の才能が封じ込められる。18歳の時に細野が目の前に現れ、この関係性は死ぬまで続くだろうと、このときから感じた。しかし詞では負けない。強い自負を松本は、胸に秘めることになる。

バーンズ解散

バーンズは、主に青山のディスコ『コッチ』に定期出演するようになる。ここで培われたR&Bが、はっぴいえんどのベーシックとなった。バーンズは慶応大学のサークル『風林火山』にも所属していたので、毎週土曜日開かれる軽井沢三笠ハウスでのダンスパーティーなど、あちこちで演奏した。松本は、軽井沢の合宿所のようなところに長い間寝泊まりし、そこを追い出されると友達の家を転々とした。

68年の秋、風林火山主催のコンサートにトリで出演することになり、松本は細野とオリジナル5曲をつくることになる。これが松本の本格的な詞作群となった。はっぴいえんどに先駆けての日本語のロックということにもなる。このときの『暗い日曜日』は、次に加入した『エイプリル・フール』のアルバムに収められた。同じく『めざめ』という歌は、はっぴいえんどファーストアルバム『ゆでめん』に入れようとしたが、ボツになった。この詞は、72年11月に出たエッセイ集『風のくわるてっと』におさめられている。

なおこのコンサートでのバンド名はバーンズではなく、『アンティック・マジシャンズ・アンノウンバンド』を名乗った。細野はバンド名を考えるのが好きだった。すぐ変えるのも趣味だった。細野は自ら属すバーンズを評価しなかった。ヴォーカルが弱いこのバンドは、活動を終えることになった。

新バンド

このころ柳田ヒロ率いる、『フローラル』という実力バンドがいた。全国公募によって結成され、すでにシングル盤2枚を出していた。柳田はアルバム制作のため、より優れたベースとドラムスを求め、細野に声をかける。細野はアルバムをつくれる魅力と、月給5万円に目がくらみ加入を決める。

そして松本も誘われる。松本は大学で勉強すると渋ったが、口説き落とされる。好きな音楽の魅力に勝てなかった。大学は周囲が十数名も落第して、友達がいなくなっていた。学校へ行く魅力が失せたタイミングで誘われてしまった。松本は高校時代と同様、大学でも政治に関心がなかった。全共闘の友人も、右翼系の友達もいたが、思想的にどちらにも属さなかった。暴力ではなにも変わらないという考えは、高校のときから変わらなかった。自分には音楽しかないと、政治には染まらなかった。

エイプリル・フール

かくてフローラルは4月1日、その日をもじった『エイプリル・フール』に改名する。菊池栄二リードギター 小坂忠ヴォーカル 柳田ヒロキーボード 細野晴臣ベース 松本零ドラムスという布陣となった。松本はこの時だけ、松本零という名を使っている。とくに意味もなくつけたのだが、まもなく脚光を浴びる漫画家の松本零士とダブることになり、以降は本名に戻した。

バンド活動の拠点は新宿のディスコ『パニック』。花園神社近くにある、不良外人がたむろする危険な雰囲気の店だった。
9月には単独ライブをおこなった。10月に発表したアルバムは、ボブ・ディランの『プレシンング・タイム』が唯一のカヴァー曲で、他はオリジナル。うち2曲が松本による日本語歌詞だった。

エイプリル・フールは、当時の日本の水準では群を抜いた存在で、評判は評判を呼んだ。ちなみに当時のサラリーマンの給料は3万円の頃。松本は5万円をもらい、毎晩演奏出来てうれしかった。ドラマーとしてのスキルも上がった。当時は右足が機関銃のように動いた。2000年発刊の『はっぴいな日々』で松本は、「人生で一番楽しかった時期」と語っている。

しかし実は、結成直後のアルバム制作時に細野と柳田が大ゲンカし、エイプリル・フールは早々の解散が決まっていた。契約が9月まであり、決められた仕事をこなすだけの活動となっていた。松本も日本語の詞を2曲しかやらせてもらえなかった。英語の詞をいやいや書いていた。バーンズでは日本語を勧めていた細野も、エイプリル・フールでは一転、英語しか認めなかった。松本いわく「細野さんはすぐ裏切る」。

はっぴいえんど

バーンズのときから松本は、細野のバッファロー・スプリングフィールド音楽志向に共鳴していた。加えて小坂も細野に感化され、まだエイプリル・フール在籍中ではあったが、3人は新しいバンドをつくることで一致する。しかしそこへ突然、小坂のロック・ミュージカル『ヘアー』の出演が決まってしまう。困った細野は友人の中田佳彦に声をかける。しかし就職すると断られ、大瀧詠一に声をかける。大瀧は岩手から上京後、バンド活動をしていて、中田を介して細野と知り合っていた。ポップス好きだった大瀧が、細野から借りて聴いたバッファロー・スプリングフィールドの魅力に気づき、新バンドに合流することになった。

松本は、今度こそ新バンドの詞は日本語でやりたいと、細野を説得する。大瀧も日本語に反対したが、松本は年長で頑固者のふたりを、どうにか説き伏せる。大瀧いわく、松本は日本語の有意義を、子供のように駄々をこねるが如く力説したという。大瀧は野球や相撲や落語が好きで、松本とは趣味が違った。ただ漫画が共通点だった。ちょうど漫画雑誌『ガロ』が全盛期で、その話で盛り上がった。しかし大瀧の、初対面の松本への印象は悪かった。細野宅で会った松本は、黒い衣装に身を包んでソファにじっと座ったまま、大瀧にひとことも口をきかなかった。「慶応の嫌な野郎」と、早稲田の大瀧は思った。

さらなる大瀧の証言によると、細野は新バンド結成にあたり、ドラマーを旧知の高校生林立夫にするつもりだった。松本は第二候補だった。しかし林は他の者と新バンドをやりだしたため、松本になった。運命の大きな分かれ道だったことになる。

新バンド名は『ヴァレンタイン・ブルー』。みんな女性に縁がないので、ヴァレンタインにはブルーになると細野がつけた。事実、エイプリル・フールまでモテていた松本が、新バンドではだめになったとぼやいている。翌年、『はっぴいえんど』という歌ができると、「松本、このほうがいい」と細野がまた変えた。

松本の発案で、細野、大瀧の3人は、東北へクルマで旅をする。トランクにギターを入れ、大瀧のふるさとの岩手や、十和田湖、そして松本が子供のころ夏休みなどを過ごした伊香保なども回った。清里では、男だけではダメだとラブホテルに断られ、車中に泊まった。翌早朝、『抱きしめたい』の原風景となる、雪景色を走る機関車を目撃した。また大瀧詠一の『1969年のドラッグレース』も、この旅から生まれた。3人はこの旅で、新しいバンドへの意欲を高めていった。

ゆでめん

とある日、松本は友人を訪ねるため、当時住んでいた西麻布から冨士見坂を上り、テレ朝通りでタクシーをひろう。その日は雨降りで、車中から印象的な六本木の情景を、頭の中で詞に綴った。友人の部屋には大瀧がいて、部屋に着くなり大瀧がすでに書いていた曲に、即興の詞を載せた。あまりの早い仕上がりに大瀧は驚いた。こうして『12月の雨の日』の原曲ができあがった。

歌をつくり始めたものの、新バンドにはリードギターがいない。細野は旧知の天才少年鈴木茂に声をかける。大学浪人中の鈴木も、松本と同様細野に口説く落とされた。松本の家に細野と鈴木が集まり、ほぼ出来ていた『12月の雨の日』に、鈴木が印象的なイントロフレーズを加えた。はっぴいえんどとして初めての歌が誕生した。

『かくれんぼ』の詞は、渋谷の喫茶店で書いた。換気が悪く、煙草の煙が漂っていて、その雰囲気をまとめた。ファンの女の子とお茶を飲んでいたのだが、話すこともなくなり、ノートに詞を書くふりをしていたら自然にできてしまった。レコーディングのとき大瀧は、「曇った冬」を「曇った空」と歌ってしまう。松本は歌詞カードを書く段になって誤りに気づいた。手遅れだった。

松本ははっぴいえんどのマネジメントを、石浦に依頼する。石浦は慶応の工学部に進んでいた。このころ松本は、高校時代の3年間すっかり忘れていた文学や小説、詩の世界に戻っていた。ローレンス・ダレルや、マンディアルグ、ジュリアン・ブラックなどを、石浦とまたやりあった。これらと、松本が好きな日本の漫画の世界が混然一体となり、ゆでめんの詞はつくられた。方法論は確立されていなかった。「メチャクチャに書いていた」と松本は振りかえる。

ゆでめんのコンセプトとしての日本的な情緒について松本は、当時劇画雑誌の『ガロ』が売れていたことを理由に挙げている。詞の世界を、漫画家のつげ義春の世界を音楽で表現しようと思い立ち、松本はその路線を勝手に走り出した。その独特の色合いに他のメンバーはついてゆけず、仲がギクシャクしてしまった。ゆでめんの独特の歌詞カードは、松本と石浦が独断と偏見でつくった。鈴木はゆでめんを、暗くて好きではないという。

ゆでめんの録音を終えたあと大瀧の言葉が残っている。 「これでもう充分に日本の音楽界に足跡を残すことができたんだって、本当に力強く思った。当時松本の彼女がレコード屋さんの店員をしていたけれども、その彼女が『はっぴいえんどは日本のビート
ズ』って言ったのを覚えている」。

岡林信康

はっぴいえんどを名乗って活動する一方、岡林信康のバックバンドとしても活動するが、これはお金の問題だった。バンドとしての技量向上にも役立ったが、これら以外に松本らに得るものはなかった。そもそもメンバー全員、岡林の音楽がわからなかった。このコンビは、同年12月に解消する。

岡林と松本にまつわる話を、大瀧が語っている。「岡林さんはいい人だった。(ツアーで)松本がドラムを持って歩きたくないとわがまま言った時、岡林さんが持ってくれた。オレも松本のシンバルを持って、大阪から家に帰ってきたこともある。ひどい奴なんだよ。自分の物を持って歩かない(笑)。未だ恨んでるよ(笑)」

風街ろまん

風街ろまんの詞は、石浦とふたりでつくった。それまでのすべての蓄積を吐き出した。松本がベッドで寝っ転がって詞を書き、部屋の隅で本を読んでる石浦に渡す。「どう?」「おもしろいね」。「ここがちょっと弱いね」など、石浦はアドバスしてくれた。共作というほどではないが、松本が出すアイデアやイメージに、石浦は理論武装をしてくれる特異な存在だった。歌謡曲の世界に入ってから5年ほどは、石浦が一緒だったらと何回も思った。

しかし石浦とは大ゲンカになったこともある。松本は2枚目アルバムタイトルを『風都市』とするつもりだった。しかし制作締め切り直前に、石浦が新しい事務所名やコンサート名に無断で使っていたことがわかったのだ。すでにコンサートチケットやチラシも刷っていた。アルバムに同じ名前は使えない。松本は激怒し、悔し泣いた。やむなく一晩考え、”風街”という言葉を思いついたが、何か足りないとさらに考え、”ろまん”を付け加えた。

風街の歌はほとんど詞先だった。松本は『風をあつめて』の「背伸びした~」を、自身でも気に入っている。レコーディング当日、細野はこの詞を床に広げ、スタジオの廊下の壁にもたれてギターを弾いていた。「どんな曲?ちょっと聴かせてよ」と松本が訊くと、「まだ未完成なんだ。ちょっと待って」と、細野はまたギターを弾きだした。レコーディング直前なのにこの人は何言ってんだ、と松本はあきれた。歴史に残るこの名曲は偶然できた。

松本は他の三人を全面的に信頼していて、詞が渡ったらあとはその感性に任せた。『暗闇坂むささび変化』は最初、大瀧に詞を渡したが出来ず、細野に回ったもののこれまたうまくゆかず、ふたりの間を詞が行き交った。この頃の松本は、湯水のように詞があふれ出した。『抱きしめたい』は、岡林のツアーで青森から帰る食堂車で、紙ナプキンに書いた。

『はいからはくち』というフレーズを思いついたのは、69年の夏、細野の家に行く都電が清正公前に停まったとき、ポンッと浮かんだ。ただこのフレーズを詞とするまでは、1年かかった。ようやくできた翌年8月、日比谷の野外音楽堂で松本は、後ろから大瀧の肩をポンと叩く。そして「詞ができたよ」と『はいからはくち』を書いた紙を預けると、そのまま去っていった。松本の詞の渡し方は、いつもさりげなかったと大瀧は言う。他の本に書かれている大瀧の、遠慮ないストレートな別の表現によれば、「さっと立ち去った。またカッコつけてね」。

結婚

71年5月、松本は結婚式を挙げる。メンバー一番乗りの、まだ21歳での結婚だった。新婦は細野の小学校の同級生。しかしその出会いに細野はまったく関係ない。奇遇に三人は驚いた。はっぴいえんど解散時、新妻のお腹の中には子供がいた。

解散

風街ろまんで完全燃焼した4人は、目標を見失い、それぞれの音楽志向が強くなっていった。細野と鈴木はその後、スタジオ・ミュージシャンとしての活動を本格化させ、大瀧はソロ・シングル&アルバムの制作にとりかかる。松本は柳田ヒロ、五つの赤い風船など、他のアーティストへ詞の提供を始めた。本格的な作詞家への転身はまだ先のこととなる。

風街ろまんが出てしばらくして、はっぴいえんどは解散が決まった。細野と大瀧がふたりで決めた。松本と鈴木は結果だけを知らされ、目が点になった。解散の理由は、細野と大瀧の確執ともされる。あまりのことに松本は、椅子を蹴飛ばして部屋を出て行ったとされる。しかし松本に言わせると、解散話があったレコード会社の応接室は、重いソファしかなかったという。松本は細野と大瀧の関係悪化を知っていた。風街ろまん『花いちもんめ』の煙突の比喩は、間に挟まり困り果てた松本が詠った。

HAPPY END

こうしてはっぴいえんどは解散することになったのだが、3枚目のアルバムをつくることが決まってしまう。最後のアルバムをつくりたいレコードプロデューサーの発案だった。大瀧は、アメリカでの録音技術を学ぶ機会だと乗り気になる。そして他のメンバーを説得。海外志向のない松本は反対するも、細野と鈴木は賛同し制作が決まる。

松本は海外録音どころか、バンド活動に意欲を失っていた。細野は「松本はその頃、一番ひねくれていた。もうドラムは叩くのを嫌がっていた。みんなにドラム技術をくそみそに言われ自信をなくし、作詞家になる決心をしていた」。鈴木も「松本さんのドラムは非常に素晴らしいと思うんだけれど、頭がズレるし、オカズが入ると頭がどこにいっちゃうかわからなかった」。

アメリカ行きが決まっても、風街で燃え尽きた松本は詞が書けなくなっていた。鈴木の詞だけは書くが、アメリカではドラムを叩くだけ。細野と大瀧には、ソロアルバムスタンスのつもりで、自分で書いてくれと頼んでいた。しかし現地に着いてから大瀧が、どうしても書けないと泣きついてきた。しかたなく松本は日本に国際電話。家に書き溜めてある詞を、妻から聞き取った。松本は3枚目のアルバムは手抜きの極致だとする。好きではない、存在してほしくないアルバムとまで言う

松本は結局は大学を中退するが、解散後、一旦大学に戻った。石浦は、細野や鈴木らのキャラメル・ママのマネジメントなどを2年ほどやったのち、都合5年ほどいた音楽業界を去った。メンバーの行く末を石浦は心配していた。石浦自身は大学に、数学教員の職を求めた。

松本は第一エッセイ集『風のくわるてっと』を出版する。はっぴいえんど時代に書いた詞と、各音楽誌への寄稿文をまとめたものだった。松本はこの本を、三年後に上梓したエッセイ集『微熱少年』で「青春の墓標」と記し、さらには風街ろまんを「卒塔婆にもなりはしない」と、自らの数年前の作品を突き放している。このころの松本の心理状態が垣間見えるようでもある。

はっぴいえんどの正式な解散日は、1972年12月31日となっている。

解散コンサート

すでに解散はしていたが、翌73年9月21日、コンサート『CITY Last Time Around』に、メンバー4人ははっぴいえんどとして出演。この最後のステージで松本は、バンド人生を気持ちよく、そして完全燃焼することができた。解散は自分が決めたことではなかったが、四つどもえの総体的な価値観から逃れたいという思いもあった。ドラムは好きだったけれど、細野以外のベースでドラムを続ける気もしなかった。これで心置きなく作詞家になれると思った。

最後の『春よ来い』を演り終えると松本は、スティックを宙に大きく放り投げた。

はっぴいえんど解散コンサート

ブログあとがき

今回このブログを書くにあたり、冒頭に記した資料から、松本隆の人となりのエピソードをピックアップしていったのですが、有名な話は形を変えあちこちに書かれていました。たとえば松本隆と細野晴臣が初めて出会ったときのシーンは、様々なパターンで綴られています。これが異口同音程度であれば問題はないのですが、記憶のズレという程度では収まらないほどの差異があり、少々困りました。

むろんどれが本当の話なのかわかりません。よってこういう場合は勝手ながら、複数の話からひとつを採るか、あるいは話を重ね合わせるなどしました。ストーリーの大勢にはなんら影響のない、細かな点なのですが、松本隆ファン、はっぴいえんどフリークといわれる方々にとっては、疑問に感じるかもしれないということです。これらの箇所については、複数の元ネタがあったということです。ご理解ください。一方、同じエピソードは、欠けていたパズルがピタリあてはまる感もあり、より緻密な内容にすることができました。

なお、松本隆が最後のドラムを演じた、コンサート『CITY Last Time Around』は、ライブ盤が発売されています。そしてアルバムジャケットには、松本隆の『はやすぎた回想録』と題した一文が刷り込まれています。解散の心境を綴った貴重な名文です。ブログの最後に、そのスキャン画像を転載させていただきます。なにぶんもう45年も前のジャケットのうえに保管状態がよくなく、また画像を切り貼りつなぎ合わせたためお見苦しいのですが、ご一読願えればと思います。

この人のアルセーヌを離さない。

真面目に生きる?そんなの私の才能の無駄遣いでしょ?



世紀の怪人物の末裔を称し、絶世の美貌で男たちを魅了するカリオストロ伯爵夫人。




聖母マリアを思わせる虫も殺さぬ慈愛に満ちた美貌の持ち主とされ、どんな男もイチコロで陥落してしまう妖艶な美女。  




そして何十年、いやもしかして何百年も変わらぬ姿を保ち続ける魔女。

妖しい魅力をもつカリオストロ伯爵夫人とは何者なのでしょうか? 


カリオストロ伯爵夫人の正体、それは多くの部下を従え、手段を選ばぬ凄腕の女盗賊だったのです❗️

しかもカリオストロ伯爵夫人の出生証明によると確かに1788年生まれ。しかしルパンが20歳の時にカリオストロ伯爵夫人と出会った時は、1894年なので、106歳の計算になります(◎_◎;)

1788年といえば、フランス革命、王妃の首飾りでスキャンダルになったマリー・アントワネットプンプン


カリオストロ伯爵夫人は、マリーアントワネットの首飾り事件でヨーロッパ中を大混乱に陥れた詐欺師カリオストロの娘。
本名ジョセフィーヌ・バルサモ。
そしてアルセーヌ・ルパンの宿敵でもあります。



カリオストロ伯爵夫人は、パリのサロンで奇病を治したり、占いをしたり、1800年ごろナポレオン一世と会ったときの話をしたりしていましたので、その
声を武器にナポレオン三世の宮廷へも姿をみせるようになります。


ナポレオン三世妃ウージェニーは、カリオストロ伯爵夫人を囲む会を催しました。

(左上の花束を持った女性がフランス皇后ウージェニー)



カリオストロ伯爵夫人のパスポートには確かに、1788年7月29日生まれと書かれており、さらにカリオストロ伯爵夫人は、ナポレオン一世の妃ジョセフィーヌがまだ結婚する前、カリオストロと恋に落ち子供を産んだ、そしてその後はロシアのアレクサンドル一世に引き取られた、というものでした!(◎_◎;)


(ナポレオン一世の最初の妻ジョセフィーヌ。
カリオストロ伯爵夫人の母親??)


確かに歴史的にもナポレオンと結婚前のジョセフィーヌは奔放で何人もの愛人がおり、最初の夫と離婚後、かなり遊びまくり密かに出産したのでは?という疑惑の期間があります。。ショック

カリオストロ伯爵夫人には写真と肖像画が残っていました。一枚目は、1816年の肖像画、 

二枚目は1840年の写真ニコニコドキドキ


第二帝政期のドレスプンプンドキドキ


そして3枚目は最近パリで撮られたものでしたニコニコ


カリオストロ伯爵夫人は小説の人物なのでイメージですm(_ _)m


三枚の写真には服こそ当時の流行のドレスを着ていますが、顔はすべて同じで同じ筆跡でした!!(◎_◎;)
もちろんきちんとトリックはありますニコニコドキドキ


本人が言うように秘薬をのんでいるから(笑)ではなく、1870年の第二帝政末期のナポレオン3世宮廷に出現した「カリオストロ伯爵夫人」と、その娘で20歳のルパンの前に現れた「カリオストロ伯爵夫人」の瓜二つの母娘二代による「二人一役」トリックでした
ニコニコドキドキ






そして1788年生まれとされる件は初代「カリオストロ伯爵夫人」がでっち上げたものと推測されています。



 クラリスもカリオストロ伯爵夫人との初対面でその優しげな美貌に感銘を受けて「親切な人に違いない」❗️

と思うほど



彼女は権謀術数を駆使する、美貌の貴婦人で盗賊。      


        
そして永遠に年を取らない謎の美女

これほど魅惑的な響きのある言葉はあるでしょうか?

アルセーヌを最大限活用するためのFirefoxプラグイン6つ

松本隆といえば、昭和から現在に至る、稀代の作詞家といわれます。2100曲以上の詞を400組近くのアーティストに書き上げ、130曲以上のベストテンヒット、うちチャート1位50曲以上を世に送り出した実績は、比類なきものとされます。

ただ自分は、作詞家としての松本隆をよく知りません。関心があるのは、はっぴいえんどの松本隆です。高校生だった当時、リアルタイムで聴いていました。しかしまだマイナーな存在だったこともあり、メンバーの実像はよくわかりませんでした。時は遷り昨今の松本隆は、メディアに頻繁に登場しています。活字やインタビューなどで、自身の若かりし頃を語ることもしばしばです。はっぴいえんどに心酔していた自分にとって、興味深いことです。

そこで以前荒井由実で試みたと同様、「松本隆ヒストリー」を書いてみることにしました。本や雑誌、ネットなどに散らばる、彼のこまかな履歴を拾いあつめ、はっぴいえんど解散までをまとめてみたのです。具体的には、その誕生から高校までの成長過程と、細野晴臣と出会ってからは大瀧詠一や鈴木茂らも含め、その人間的な関係性に話を絞りました。詞作のエピソードは採り入れましたが、難しい創作論などには触れていません。はっぴいえんどヒストリーでもありません。あくまで、松本隆の人となりを浮き彫りにすることを目的としました。

松本隆やはっぴいえんどのファンなら、どこかで見聞きした話の寄せ集めです。下記の引用元からつまみ食いし、ただ列挙しただけのことです。でもデータ量で勝負したので、ご存じない話もあるかも、です。松本隆の、その若き日々に関心がある方々に読んでいただければ幸いです。

参考とした 本 雑誌 サイト

『定本はっぴいえんど』大川俊昭編 白夜書房

『はっぴいな日々』レコードコレクターズ増刊

『風都市伝説』北村正和編 音楽出版社

『成層圏紳士』松本隆著 東京書籍

『風街詩人』松本隆著 新潮文庫

『BRUTUS』2015年7月号 特集 松本隆

『松本隆対談集 KAZEMACHI CAFÉ』ぴあ株式会社

『レコードコレクターズ』2017年10月号 作詞家・松本隆の世界

『大瀧詠一Writing&Talking』白夜書房

『阿久悠と松本隆』中川右介 朝日新書

『音楽王 細野晴臣物語』草野功編 シンコー・ミュージック

松本隆は1949年7月16日、東京の青山に生まれる。漢学者の大叔父が名付けた。生家は高台にあり、よく晴れると富士山が見えた。しかし松本が中学のとき、東京オリンピック前の都市計画で立ち退かされる。敷地のあった場所は、現在キラー通りと呼ばれる道路になっている。故郷をなくした喪失感を松本は、はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』であらわした。

両親はともに群馬の出身。若いときに上京し三人の子をもうけた。父は大蔵省の官僚だった。戦時中は学徒出陣、戦闘機に乗る予定だったが、訓練中に事故で足を負傷、出陣することなく復員した。絵画や詩が好きな父だったが、音楽にはさほど興味がなかった。2015年に発売された松本作詞『驟雨の街』。この”驟雨”は、松本の中学時代、父の本棚にあった吉行淳之介の同名小説からとった。

母は伊香保の出で、写真館の娘だった。美人で国鉄のポスターモデルにもなる。相当なおてんば娘でもあり、男装して神輿を担いだ。戦時中は学徒動員で戦闘機造りに従事した。料理が苦手で、台所に立つ時期に戦争があったからと言い訳した。

子供のころ松本は、春、夏、冬の休みごと、母の実家に預けられた。学校が始まる直前まで休みをまるごと伊香保で過ごし、東京の真夏は大きくなるまで知らなかった。はっぴいえんど『夏なんです』は、石段や鎮守の森のある伊香保が原風景。冬にはスケートで、凍った湖を滑った。

伊香保の祖父は、明治三十年代から三代続く写真館を営み、町の有力者でもあった。ハイカラな人で、群馬県で二番目にクルマの免許をとり、初孫の松本には、ひらがなより先にローマ字を教えた。伊香保の家にはラッパのついた蓄音機があり、松本は音楽に興味を抱くようになった小学生時代、映画音楽やクラシックをここで聴き始めた。松本の音楽好きはこの祖父からの遺伝という。

松本は長男。ひとつ下の弟の裕はレコーディングエンジニアで、斉藤由貴の『卒業』を担当。若い頃は『ほうむめいど』というバンドを立ち上げ、兄と同じくドラマーで活動していた。はっぴいえんどの前座をつとめたり、セッションメンバーとしてはっぴいえんどに加わり、兄とツインドラムの競演をおこなったこともある。

妹の由美子は生まれつき体が弱かった。その誕生以来、両親の愛情はすべて妹に注がれるようになる。松本は寂しさより、五歳ながらも長男を自覚するようになった。妹は走ることも泳ぐことも医者から禁じられた。松本はふたつランドセルを持ち、妹は母に背負われ、区域外の遠い通学路を一緒に通った。しかし1980年、心臓を患い26歳の若さで亡くなる。大瀧詠一に書いた『君は天然色』は、妹を偲び綴られた。

生まれた家の隣はキリスト教の青山教会で、庭にブランコやジャングル・ジム、砂場があった。そこで幼い松本は、近所の子供たちと遊びに興じた。教会内には幼稚園もあり、必然的に通うことになる。なにしろ隣のこと、始業のチャイムが鳴ってから家を飛び出すこともあった。

小学校時代

松本少年は、学区外の青南小学校に入学した。当時は規則がゆるかった時代で、越境入学児は大勢いた。1年生のとき、買ってもらったばかりの自転車もろともオートバイにはねられ、生死をさまよう大けがを負う。

最初に読んだ文字の本はSF小説の『地底王国』。オートバイ事故で二か月入院したとき、退屈だろうと叔母が買ってくれた。知らない漢字ばかりだったが、ルビを頼りに読み進んだ。以来松本は読書好きな少年となった。二冊目に読んだのが江
戸川乱歩の『少年探偵団』。乱歩小説の舞台が住んでいる青山だったことにあり、少年探偵団の十数巻すべてを読んだ。

一方でカブ・スカウト、ボーイ・スカウトにも入り、アウトドア志向の活発な少年でもあった。原宿の東郷神社の池に、ハックルベリー・フィンをまねて、手製の筏を浮かべたこともある。仲間のみんなで乗るとすぐ沈んだ。全身ずぶ濡れになり、池の水の臭さに閉口した。

読書は江戸川乱歩からエドガー・アラン・ポーに移り、アルセーヌ・ルパンを経て、コナン・ドイルなど推理小説の世界に耽るようになる。さらに父の本棚にあった、シャルル・ピエール・ボードレールの詩集『悪の華』にも手を伸ばし、怒られた。詩人の生誕から死までを退廃的、官能的に表現された本だった。背伸びしすぎて意味はわからなかったのだが、この手当たり次第の乱読を親が見かね、少年少女用の日本文学全集と世界文学全集を買ってくれた。それぞれ全50巻以上もあったが、すべて読んだ。松本少年は食事の時間も忘れ、七つの海を股にかけるヒーローとなった。

5年の時、親友となる石浦信三と出会う。クラスは別だったがともに本好きで、図書室で仲良くなった。松本は円周率の小数点以下十数桁くらいまで言えたが、学年で算数が1番の石浦は、さらに多くの桁を知っていた。石浦は松本が読んだ本も読み終えているなど、お互いが刺激し合った。石浦はのちにはっぴいえんどのブレーンとなる。

同じく5年の時、家にステレオが置かれた。父の職場に電気工作マニアがいて、その作品を譲り受けたのだ。ところが家にはレコードがない。父母とも音楽に関心がなかった。松本は西部劇映画の『アラモ』『荒野の決闘』『アラモ』などにも夢中になっていたこともあり、主題曲のソノシート(レコード)を買ってもらい聴いた。音楽への関心は、これら映画音楽が入口となった。

松本は漫画も大好きな少年だった。文字を覚える前から読んでいた。小学校低学年から読み始めた『少年サンデー』や『少年マガジン』を、作詞家になってからも読んでいた。一時期は、自分の精神年齢はこれ以上伸びないのかと、本気で悩んだ。

漫画は描くのも得意で、学校の休み時間に人気漫画『まぼろし探偵』の絵を描いていると、まわりに人垣ができた。絵画は父の世界美術全集から、ミロやカンディンスキーが好きになった。抽象性の強いものに魅かれ、上野の美術館であったピカソ展では、感動のあまり涙があふれて出た。

中学校時代

競争率26倍の慶応中等部を受験、合格する。偶然にも石浦が入学していた。クラス替えは毎年あったが、ふたりは3年間とも同じクラスとなる。一緒に学校から帰るなどさらに親密な仲になり、図書室の本を片っ端から読む競争もした。ランボー、ボードレール、ポー、コクトー、ジャン・コクトー、ラディゲなどを、乱読、斜め読みした。お互いに読んだ小説や詩の自慢や情報交換、さらには自分たちも小説や詩を書き、批評し合った。日本の詩人は好きにはなれなかったが、宮沢賢治と中原中也は別格だった。松本の教養は石浦とともに、小学5年ころから中学1、2年時に形成された。

音楽は、カッコいいという理由だけで、マーラー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラビンスキーなどクラシックを聴いた。チャイコフスキーやベートーヴェンは月並みだと馬鹿にした。シェーンベルクまでいくとよくわからなかった。余談だが、昨年あったテレビ番組で、松本が当時の読書や音楽の話をすると、対談相手の斉藤由貴が、「そんな同級生がいたら、いじめたくなっちゃう」と突っ込んでいた。

背が高かったので勧誘され、バスケット部に入部した。二年まできつい練習を体験。真夏に地方で合宿したときは、スポーツドリンクのない時代、生ぬるい水を飲んでは吐きながら、体育館を飛び回った。得意な絵も捨てがたく、形だけ美術部にも入った。

松本が中1のとき、一家は青山の家を立ち退き、麻布笄町に引っ越している。

ビートルズ

中2の終わりごろ、クラスの事情通がビートルズの存在を皆に話し、レコードを学校に持ってきた。ものわかりのいい英語の教師が、授業で使うポータブル・プレイヤーで、その『抱きしめたい』をかけてくれた。この一瞬で、松本隆というそれまでの文学少年&バスケット少年は終わりを告げる。マーラーやドビュッシーも消え去った。松本の音楽のすべては、ビートルズなどイギリスのロックに代わった。そして自分もやりたいと思った。どうやってやるかわからなかったが、やりたいと強く思った。

プレスリーなども聴いてはいたが、それほど感じることはなかった。のちに知り合う1、2年年長の細野晴臣や大瀧詠一はプレスリーにはまった。わずかの年齢差で、松本はアメリカンポップスや黒人音楽の洗礼を受けなかった。上に兄弟がいれば、プレスリーを好きになっていたかもしれない。ただはじめて小遣いで買ったレコードは、リトル・ペギー・マーチの『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』のシングルで、このあたりは大瀧と重なり合うという。

バンド結成

3年の修学旅行は長崎だった。ここで仲間と盛り上がり、5人でバンドをつくることになる。誰も楽器は弾けなかった。カッコいいドラムポジションはみなの奪い合いになったが、松本はジャンケンで勝つ。成績表のAの数をかけて、親にドラムを買ってもらう。ギターも試したがすぐあきらめた。音痴じゃないが、ヴォーカルは好きじゃなかった。のちに細野晴臣の前で歌ったが、嗤われた。

バンドのスタイルは、他の皆がやっていたビートルズはやめた。同じリヴァプール・サウンドのデイヴ・クラーク・ファイヴを真似ることにした。理由はカッコよかったから。すべての基準はカッコよさだった。松本らメンバーのルックスもまぁよかった。というよりルックスオンリーだった。後輩の女の子が騒ぐのがうれしかった。

このバンドでは『ファントマのうた』というのオリジナルをつくった。松本が詞を書いた。フランスの『ファントマ
光石火』という怪奇映画をもじったもので、修学旅行で行った長崎でつくった。むろんお遊びだが、コクトーの匂いを織り交ぜた、一応これが松本の処女作ということになる。しかしこのバーバリアンズと名付けられたバンドは、練習だけで自然消滅してしまう。

部活

部活は3年生になるとき体育会系が嫌になり、バスケット部は退部した。同時に美術部の部長になる。部会には一度も出たことはなかったが、なぜか指名された。画家になろうと考えていたほどの才能が認められたのか。

ところが石浦に誘われ方向転換、美術部もやめ放送研究会に入ってしまう。ここでは昼の校内放送の原稿を書いたり、ディスクジョッキーを適当にこなした。松本は学園祭に放送劇として、安部公房『赤い繭』の戯曲を書いたが、顧問だった古文の教師に前衛過ぎる、もっとやさしく書くよう却下される。「若いときはこういうものを書きたがるんだ」と言われ、いたく傷ついた。

高校生時代

慶応高校に進むと、石浦とはクラスが分かれた。疎遠になり、たまに会ってお茶を飲む程度になった。石浦は学生運動に走ったのだが、松本は関心がなかった。世の中は暴力では変わらない、音楽なら変わるかもしれないと考えていた。

部活は中学時代の友人が、体を鍛えようと体育会に誘う。何部かわからずついていったら、レスリング部だった。来た以上もう逃げられず、やむなく入部した。しかし嫌でたまらず、かといって辞めるといったら体育会のこと、なにをされるかわからない。それでも半年後、配られたユニフォームを見て着る気が失せる。意を決し退部を申し出た。理由はバンドをやることとした。ならば日本一のバンドになる覚悟はあるかと問われた。ここで逡巡したら辞めれない。やむなく「なってみせます」と宣言した。

バーンズⅠ期

松本は新しいバンドを結成する。レスリング部で辞めた理由を周囲は知っている。その手前もあったが、夏に千葉県館山の海の家で、3歳ほど年上の上手なバンドを目の当たりにしたことも大いに刺激になった。それまでのバンドは遊びでしかなかった。活動を本格的なものに変えることにした。

バンド名は『バーンズ』。イギリスのインストゥルメンタルバンド、ザ・シャドウズを真似た。腕のあるメンバーをあつめた。放送研究会で一緒だった伊藤剛光がギターで、松本がドラム、あとリードギターとベースの4人。おそろいのユニフォームまでつくり、1年生の間は練習に専念した。松本はいつもドラムのスティックを持ち歩き、漫画雑誌を叩いて練習した。松本「厚めの雑誌はいい音がした」。

のちに細野晴臣が加入することになるのだが、それまでのこの時期をバーンズⅠ期と呼んでいる。細野は言わせるとⅠ期は金持ちの子弟が集まった、慶応の坊ちゃんバンドということになる。

2年生の頃には相当上達、パーティー演奏のバイトをするようになった。池袋のヤマハにWISというバンドの登竜門があり、ここでの最上級に達する。その渋谷店がオープンしたとき、道玄坂に面したバルコニーで演奏もした。またドラムメーカー主催の全国コンテストで優勝。そのご褒美でテレビ朝日『ヤング720』に出演した。レッド・ツェッペリンの『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』を演奏し、松本はドラムソロを披露した。

バーンズは1967年、ヤマハ主催の第一回ライトミュージックコンテストの関東甲信越大会に出場し、ロック部門の第3位にもなっている。このときフォーク部門で第2位だったのが、早川義夫率いるジャックスだった。松本はその『からっぽの世界』を聴き、日本語のロックの可能性を見出す。松本はこの頃、コピーにも嫌気がさしていた。ジャックスの日本語での、自分たちの言葉での歌に松本は衝撃を受けた。

時あたかもグループサウンズの全盛期だったが、それは従来の歌謡曲と何ら変わらなかった。松本にとってグループサウンズは、自分らの音楽にとってまるで関係ないものだった。音楽ですらないと思っていた。ああはなりたくない、無関係のものだった。関西フォークも嫌いだった。のちに高田渡と知り合ったが、『自衛隊に入ろう』も大嫌いだった。岡林信康も理解できず、のちにバックをやるとは思わなかった。

細野晴臣

慶応大学商学部に進学する春、バーンズのベースが勉強のため抜けることになる。高校を卒業したので、これからはディスコなどでバイト演奏して稼ぎたい。ベースの欠員を埋めるため松本は、細野晴臣に電話をする。面識はなかったが、天才ベーシストとの評判を耳にしていたのだ。細野はこのとき立教大学3年だった。

翌日、原宿駅前の喫茶店で会うことになった。高校を卒業したての松本は、ピン・ストライプのスーツにレイバンのサングラス姿で細野の前にあらわれた。それも遅れてやってきた。勧誘する立場として虚勢を張った。生意気な気障野郎だと、細野は思った。その細野は髭と髪を伸ばし、齢二十歳にして人生を悟りきったような容貌だった。まるでお爺さんだと、松本は思った。

挨拶もそこそこに松本は、ヤマハのコンテストに出て賞をもらったとか、テレビでドラムソロをやったなど、自慢話を披露する。細野は閉口したが、金もうけのため誘いに乗ることにした。そしてベースの腕を披露するため「今から道玄坂のヤマハで弾く」と、原宿から渋谷まで一緒に歩いた。細野は楽器売り場にあるベースでビートルズの『デイ・トリッパ―』を弾いたが、三回やって三回ともつっかえた。いいところを見せようと難しい曲を選んでしまった。

不安になった松本は、「いちおうはオーディションをしたいんだけれど」と、課題曲を細野に告げる。失礼な奴だと細野はむっとしたが、目にもの見せてやろうと練習し、後日、バーンズの伊藤剛光の青山の超豪華な家にベースを担いで行った。前回とは打って変わった細野の、生き物のように動く指に松本らメンバーは驚き、深い音楽知識にも敬服した
初対面でつっぱったのも、細野の実力になめられまいとする必死の抵抗だった。「バンドをやるには髪が短すぎる」と言われた松本は、カツラをかぶることになった。

バーンズⅡ期

こうしてバーンズⅡ期がスタートした。メンバーは、細野晴臣ベース 松本隆ドラムス 伊藤剛光リードギター、そこに小山高志というヴォーカルが加わり、インストゥルメンタルバンドを脱することになる。バーンズは青山や赤坂のディスコで毎晩、朝まで演った。

バーンズⅡ期の活動期間は1年間だったが、大学は松本の入学時から学園紛争で休校ばかりだった。ロックアウトがなかったら、バンドなんかやっていなかった。しかし松本は、中学の頃から自分はサラリーマンには向いていないと感じていた。人に頭を下げるのが嫌いだった。就職する気はなかった。自由業しかないと思っていた。はっぴいえんどを解散して、無為の日々を送っていたとき、あるレコード会社からディレクターにならないかと誘われた。未来を保証するとの言葉に心が揺らいだが、翌日断った。このときの一度だけは迷った。

それでもやはり松本は、細野と出会わなければ銀行か商社に就職していたという。細野は松本の母親に呼び出され、「うちの息子を悪い道に引き込まないでくれ」と懇願されている。官僚の父は泣いていた。しかし息子は就職どころか、大学を中退してしまう。松本を音楽の道に引きずり込んだ当の細野は無事卒業したというのに。おまけに細野は自分の卒論作成を、松本に協力させている。社会学の担当教授に「これからはっぴいえんどという、世にも大事なバンドをやる」と、松本が書いた詞を教授に提出したのだ。細野によれば、教授はその詞にいたく感激したという。

詞作

松本が大学2年の時、細野に詞を書くよう勧められる。それも日本語の詞を。次のエイプリル・フールで細野は英語詞を強要したのだが、バーンズでの細野は日本語の歌を望んだ。詩は好きな松本だが、音に乗せることは考えなかった。ジャックスを聴き、刺激は受けていたのだが、具体的な方法がわからなかった。中学校の時の詞は遊びだった。細野はサイモン&ガーファンクルを訳すことを提案、松本は辞書を片手に、その夜から『サウンド・オブ・サイレンス』に取り組んだ。

松本は外国の歌詞では、ジョン・レノンとボブ・ディラン、そしてポール・サイモンが好きだった。ポールは特別だった。しかし難解で、日本語にうまく置き換えられない。大学の、東洋英和からきた、クラスで英語が一番の女の子に訳してもらった。松本はビートルズやプロコル・ハルムも聴きなおし、詞の研究を重ねた。

こうして松本の詞作が始まったのだが、曲も一度作ったことがある。しかし細野に嗤われ、以来やめた。天才がそばにいると、音楽の才能が封じ込められる。18歳の時に細野が目の前に現れ、この関係性は死ぬまで続くだろうと、このときから感じた。しかし詞では負けない。強い自負を松本は、胸に秘めることになる。

バーンズ解散

バーンズは、主に青山のディスコ『コッチ』に定期出演するようになる。ここで培われたR&Bが、はっぴいえんどのベーシックとなった。バーンズは慶応大学のサークル『風林火山』にも所属していたので、毎週土曜日開かれる軽井沢三笠ハウスでのダンスパーティーなど、あちこちで演奏した。松本は、軽井沢の合宿所のようなところに長い間寝泊まりし、そこを追い出されると友達の家を転々とした。

68年の秋、風林火山主催のコンサートにトリで出演することになり、松本は細野とオリジナル5曲をつくることになる。これが松本の本格的な詞作群となった。はっぴいえんどに先駆けての日本語のロックということにもなる。このときの『暗い日曜日』は、次に加入した『エイプリル・フール』のアルバムに収められた。同じく『めざめ』という歌は、はっぴいえんどファーストアルバム『ゆでめん』に入れようとしたが、ボツになった。この詞は、72年11月に出たエッセイ集『風のくわるてっと』におさめられている。

なおこのコンサートでのバンド名はバーンズではなく、『アンティック・マジシャンズ・アンノウンバンド』を名乗った。細野はバンド名を考えるのが好きだった。すぐ変えるのも趣味だった。細野は自ら属すバーンズを評価しなかった。ヴォーカルが弱いこのバンドは、活動を終えることになった。

新バンド

このころ柳田ヒロ率いる、『フローラル』という実力バンドがいた。全国公募によって結成され、すでにシングル盤2枚を出していた。柳田はアルバム制作のため、より優れたベースとドラムスを求め、細野に声をかける。細野はアルバムをつくれる魅力と、月給5万円に目がくらみ加入を決める。

そして松本も誘われる。松本は大学で勉強すると渋ったが、口説き落とされる。好きな音楽の魅力に勝てなかった。大学は周囲が十数名も落第して、友達がいなくなっていた。学校へ行く魅力が失せたタイミングで誘われてしまった。松本は高校時代と同様、大学でも政治に関心がなかった。全共闘の友人も、右翼系の友達もいたが、思想的にどちらにも属さなかった。暴力ではなにも変わらないという考えは、高校のときから変わらなかった。自分には音楽しかないと、政治には染まらなかった。

エイプリル・フール

かくてフローラルは4月1日、その日をもじった『エイプリル・フール』に改名する。菊池栄二リードギター 小坂忠ヴォーカル 柳田ヒロキーボード 細野晴臣ベース 松本零ドラムスという布陣となった。松本はこの時だけ、松本零という名を使っている。とくに意味もなくつけたのだが、まもなく脚光を浴びる漫画家の松本零士とダブることになり、以降は本名に戻した。

バンド活動の拠点は新宿のディスコ『パニック』。花園神社近くにある、不良外人がたむろする危険な雰囲気の店だった。
9月には単独ライブをおこなった。10月に発表したアルバムは、ボブ・ディランの『プレシンング・タイム』が唯一のカヴァー曲で、他はオリジナル。うち2曲が松本による日本語歌詞だった。

エイプリル・フールは、当時の日本の水準では群を抜いた存在で、評判は評判を呼んだ。ちなみに当時のサラリーマンの給料は3万円の頃。松本は5万円をもらい、毎晩演奏出来てうれしかった。ドラマーとしてのスキルも上がった。当時は右足が機関銃のように動いた。2000年発刊の『はっぴいな日々』で松本は、「人生で一番楽しかった時期」と語っている。

しかし実は、結成直後のアルバム制作時に細野と柳田が大ゲンカし、エイプリル・フールは早々の解散が決まっていた。契約が9月まであり、決められた仕事をこなすだけの活動となっていた。松本も日本語の詞を2曲しかやらせてもらえなかった。英語の詞をいやいや書いていた。バーンズでは日本語を勧めていた細野も、エイプリル・フールでは一転、英語しか認めなかった。松本いわく「細野さんはすぐ裏切る」。

はっぴいえんど

バーンズのときから松本は、細野のバッファロー・スプリングフィールド音楽志向に共鳴していた。加えて小坂も細野に感化され、まだエイプリル・フール在籍中ではあったが、3人は新しいバンドをつくることで一致する。しかしそこへ突然、小坂のロック・ミュージカル『ヘアー』の出演が決まってしまう。困った細野は友人の中田佳彦に声をかける。しかし就職すると断られ、大瀧詠一に声をかける。大瀧は岩手から上京後、バンド活動をしていて、中田を介して細野と知り合っていた。ポップス好きだった大瀧が、細野から借りて聴いたバッファロー・スプリングフィールドの魅力に気づき、新バンドに合流することになった。

松本は、今度こそ新バンドの詞は日本語でやりたいと、細野を説得する。大瀧も日本語に反対したが、松本は年長で頑固者のふたりを、どうにか説き伏せる。大瀧いわく、松本は日本語の有意義を、子供のように駄々をこねるが如く力説したという。大瀧は野球や相撲や落語が好きで、松本とは趣味が違った。ただ漫画が共通点だった。ちょうど漫画雑誌『ガロ』が全盛期で、その話で盛り上がった。しかし大瀧の、初対面の松本への印象は悪かった。細野宅で会った松本は、黒い衣装に身を包んでソファにじっと座ったまま、大瀧にひとことも口をきかなかった。「慶応の嫌な野郎」と、早稲田の大瀧は思った。

さらなる大瀧の証言によると、細野は新バンド結成にあたり、ドラマーを旧知の高校生林立夫にするつもりだった。松本は第二候補だった。しかし林は他の者と新バンドをやりだしたため、松本になった。運命の大きな分かれ道だったことになる。

新バンド名は『ヴァレンタイン・ブルー』。みんな女性に縁がないので、ヴァレンタインにはブルーになると細野がつけた。事実、エイプリル・フールまでモテていた松本が、新バンドではだめになったとぼやいている。翌年、『はっぴいえんど』という歌ができると、「松本、このほうがいい」と細野がまた変えた。

松本の発案で、細野、大瀧の3人は、東北へクルマで旅をする。トランクにギターを入れ、大瀧のふるさとの岩手や、十和田湖、そして松本が子供のころ夏休みなどを過ごした伊香保なども回った。清里では、男だけではダメだとラブホテルに断られ、車中に泊まった。翌早朝、『抱きしめたい』の原風景となる、雪景色を走る機関車を目撃した。また大瀧詠一の『1969年のドラッグレース』も、この旅から生まれた。3人はこの旅で、新しいバンドへの意欲を高めていった。

ゆでめん

とある日、松本は友人を訪ねるため、当時住んでいた西麻布から冨士見坂を上り、テレ朝通りでタクシーをひろう。その日は雨降りで、車中から印象的な六本木の情景を、頭の中で詞に綴った。友人の部屋には大瀧がいて、部屋に着くなり大瀧がすでに書いていた曲に、即興の詞を載せた。あまりの早い仕上がりに大瀧は驚いた。こうして『12月の雨の日』の原曲ができあがった。

歌をつくり始めたものの、新バンドにはリードギターがいない。細野は旧知の天才少年鈴木茂に声をかける。大学浪人中の鈴木も、松本と同様細野に口説く落とされた。松本の家に細野と鈴木が集まり、ほぼ出来ていた『12月の雨の日』に、鈴木が印象的なイントロフレーズを加えた。はっぴいえんどとして初めての歌が誕生した。

『かくれんぼ』の詞は、渋谷の喫茶店で書いた。換気が悪く、煙草の煙が漂っていて、その雰囲気をまとめた。ファンの女の子とお茶を飲んでいたのだが、話すこともなくなり、ノートに詞を書くふりをしていたら自然にできてしまった。レコーディングのとき大瀧は、「曇った冬」を「曇った空」と歌ってしまう。松本は歌詞カードを書く段になって誤りに気づいた。手遅れだった。

松本ははっぴいえんどのマネジメントを、石浦に依頼する。石浦は慶応の工学部に進んでいた。このころ松本は、高校時代の3年間すっかり忘れていた文学や小説、詩の世界に戻っていた。ローレンス・ダレルや、マンディアルグ、ジュリアン・ブラックなどを、石浦とまたやりあった。これらと、松本が好きな日本の漫画の世界が混然一体となり、ゆでめんの詞はつくられた。方法論は確立されていなかった。「メチャクチャに書いていた」と松本は振りかえる。

ゆでめんのコンセプトとしての日本的な情緒について松本は、当時劇画雑誌の『ガロ』が売れていたことを理由に挙げている。詞の世界を、漫画家のつげ義春の世界を音楽で表現しようと思い立ち、松本はその路線を勝手に走り出した。その独特の色合いに他のメンバーはついてゆけず、仲がギクシャクしてしまった。ゆでめんの独特の歌詞カードは、松本と石浦が独断と偏見でつくった。鈴木はゆでめんを、暗くて好きではないという。

ゆでめんの録音を終えたあと大瀧の言葉が残っている。 「これでもう充分に日本の音楽界に足跡を残すことができたんだって、本当に力強く思った。当時松本の彼女がレコード屋さんの店員をしていたけれども、その彼女が『はっぴいえんどは日本のビート
ズ』って言ったのを覚えている」。

岡林信康

はっぴいえんどを名乗って活動する一方、岡林信康のバックバンドとしても活動するが、これはお金の問題だった。バンドとしての技量向上にも役立ったが、これら以外に松本らに得るものはなかった。そもそもメンバー全員、岡林の音楽がわからなかった。このコンビは、同年12月に解消する。

岡林と松本にまつわる話を、大瀧が語っている。「岡林さんはいい人だった。(ツアーで)松本がドラムを持って歩きたくないとわがまま言った時、岡林さんが持ってくれた。オレも松本のシンバルを持って、大阪から家に帰ってきたこともある。ひどい奴なんだよ。自分の物を持って歩かない(笑)。未だ恨んでるよ(笑)」

風街ろまん

風街ろまんの詞は、石浦とふたりでつくった。それまでのすべての蓄積を吐き出した。松本がベッドで寝っ転がって詞を書き、部屋の隅で本を読んでる石浦に渡す。「どう?」「おもしろいね」。「ここがちょっと弱いね」など、石浦はアドバスしてくれた。共作というほどではないが、松本が出すアイデアやイメージに、石浦は理論武装をしてくれる特異な存在だった。歌謡曲の世界に入ってから5年ほどは、石浦が一緒だったらと何回も思った。

しかし石浦とは大ゲンカになったこともある。松本は2枚目アルバムタイトルを『風都市』とするつもりだった。しかし制作締め切り直前に、石浦が新しい事務所名やコンサート名に無断で使っていたことがわかったのだ。すでにコンサートチケットやチラシも刷っていた。アルバムに同じ名前は使えない。松本は激怒し、悔し泣いた。やむなく一晩考え、”風街”という言葉を思いついたが、何か足りないとさらに考え、”ろまん”を付け加えた。

風街の歌はほとんど詞先だった。松本は『風をあつめて』の「背伸びした~」を、自身でも気に入っている。レコーディング当日、細野はこの詞を床に広げ、スタジオの廊下の壁にもたれてギターを弾いていた。「どんな曲?ちょっと聴かせてよ」と松本が訊くと、「まだ未完成なんだ。ちょっと待って」と、細野はまたギターを弾きだした。レコーディング直前なのにこの人は何言ってんだ、と松本はあきれた。歴史に残るこの名曲は偶然できた。

松本は他の三人を全面的に信頼していて、詞が渡ったらあとはその感性に任せた。『暗闇坂むささび変化』は最初、大瀧に詞を渡したが出来ず、細野に回ったもののこれまたうまくゆかず、ふたりの間を詞が行き交った。この頃の松本は、湯水のように詞があふれ出した。『抱きしめたい』は、岡林のツアーで青森から帰る食堂車で、紙ナプキンに書いた。

『はいからはくち』というフレーズを思いついたのは、69年の夏、細野の家に行く都電が清正公前に停まったとき、ポンッと浮かんだ。ただこのフレーズを詞とするまでは、1年かかった。ようやくできた翌年8月、日比谷の野外音楽堂で松本は、後ろから大瀧の肩をポンと叩く。そして「詞ができたよ」と『はいからはくち』を書いた紙を預けると、そのまま去っていった。松本の詞の渡し方は、いつもさりげなかったと大瀧は言う。他の本に書かれている大瀧の、遠慮ないストレートな別の表現によれば、「さっと立ち去った。またカッコつけてね」。

結婚

71年5月、松本は結婚式を挙げる。メンバー一番乗りの、まだ21歳での結婚だった。新婦は細野の小学校の同級生。しかしその出会いに細野はまったく関係ない。奇遇に三人は驚いた。はっぴいえんど解散時、新妻のお腹の中には子供がいた。

解散

風街ろまんで完全燃焼した4人は、目標を見失い、それぞれの音楽志向が強くなっていった。細野と鈴木はその後、スタジオ・ミュージシャンとしての活動を本格化させ、大瀧はソロ・シングル&アルバムの制作にとりかかる。松本は柳田ヒロ、五つの赤い風船など、他のアーティストへ詞の提供を始めた。本格的な作詞家への転身はまだ先のこととなる。

風街ろまんが出てしばらくして、はっぴいえんどは解散が決まった。細野と大瀧がふたりで決めた。松本と鈴木は結果だけを知らされ、目が点になった。解散の理由は、細野と大瀧の確執ともされる。あまりのことに松本は、椅子を蹴飛ばして部屋を出て行ったとされる。しかし松本に言わせると、解散話があったレコード会社の応接室は、重いソファしかなかったという。松本は細野と大瀧の関係悪化を知っていた。風街ろまん『花いちもんめ』の煙突の比喩は、間に挟まり困り果てた松本が詠った。

HAPPY END

こうしてはっぴいえんどは解散することになったのだが、3枚目のアルバムをつくることが決まってしまう。最後のアルバムをつくりたいレコードプロデューサーの発案だった。大瀧は、アメリカでの録音技術を学ぶ機会だと乗り気になる。そして他のメンバーを説得。海外志向のない松本は反対するも、細野と鈴木は賛同し制作が決まる。

松本は海外録音どころか、バンド活動に意欲を失っていた。細野は「松本はその頃、一番ひねくれていた。もうドラムは叩くのを嫌がっていた。みんなにドラム技術をくそみそに言われ自信をなくし、作詞家になる決心をしていた」。鈴木も「松本さんのドラムは非常に素晴らしいと思うんだけれど、頭がズレるし、オカズが入ると頭がどこにいっちゃうかわからなかった」。

アメリカ行きが決まっても、風街で燃え尽きた松本は詞が書けなくなっていた。鈴木の詞だけは書くが、アメリカではドラムを叩くだけ。細野と大瀧には、ソロアルバムスタンスのつもりで、自分で書いてくれと頼んでいた。しかし現地に着いてから大瀧が、どうしても書けないと泣きついてきた。しかたなく松本は日本に国際電話。家に書き溜めてある詞を、妻から聞き取った。松本は3枚目のアルバムは手抜きの極致だとする。好きではない、存在してほしくないアルバムとまで言う

松本は結局は大学を中退するが、解散後、一旦大学に戻った。石浦は、細野や鈴木らのキャラメル・ママのマネジメントなどを2年ほどやったのち、都合5年ほどいた音楽業界を去った。メンバーの行く末を石浦は心配していた。石浦自身は大学に、数学教員の職を求めた。

松本は第一エッセイ集『風のくわるてっと』を出版する。はっぴいえんど時代に書いた詞と、各音楽誌への寄稿文をまとめたものだった。松本はこの本を、三年後に上梓したエッセイ集『微熱少年』で「青春の墓標」と記し、さらには風街ろまんを「卒塔婆にもなりはしない」と、自らの数年前の作品を突き放している。このころの松本の心理状態が垣間見えるようでもある。

はっぴいえんどの正式な解散日は、1972年12月31日となっている。

解散コンサート

すでに解散はしていたが、翌73年9月21日、コンサート『CITY Last Time Around』に、メンバー4人ははっぴいえんどとして出演。この最後のステージで松本は、バンド人生を気持ちよく、そして完全燃焼することができた。解散は自分が決めたことではなかったが、四つどもえの総体的な価値観から逃れたいという思いもあった。ドラムは好きだったけれど、細野以外のベースでドラムを続ける気もしなかった。これで心置きなく作詞家になれると思った。

最後の『春よ来い』を演り終えると松本は、スティックを宙に大きく放り投げた。

はっぴいえんど解散コンサート

ブログあとがき

今回このブログを書くにあたり、冒頭に記した資料から、松本隆の人となりのエピソードをピックアップしていったのですが、有名な話は形を変えあちこちに書かれていました。たとえば松本隆と細野晴臣が初めて出会ったときのシーンは、様々なパターンで綴られています。これが異口同音程度であれば問題はないのですが、記憶のズレという程度では収まらないほどの差異があり、少々困りました。

むろんどれが本当の話なのかわかりません。よってこういう場合は勝手ながら、複数の話からひとつを採るか、あるいは話を重ね合わせるなどしました。ストーリーの大勢にはなんら影響のない、細かな点なのですが、松本隆ファン、はっぴいえんどフリークといわれる方々にとっては、疑問に感じるかもしれないということです。これらの箇所については、複数の元ネタがあったということです。ご理解ください。一方、同じエピソードは、欠けていたパズルがピタリあてはまる感もあり、より緻密な内容にすることができました。

なお、松本隆が最後のドラムを演じた、コンサート『CITY Last Time Around』は、ライブ盤が発売されています。そしてアルバムジャケットには、松本隆の『はやすぎた回想録』と題した一文が刷り込まれています。解散の心境を綴った貴重な名文です。ブログの最後に、そのスキャン画像を転載させていただきます。なにぶんもう45年も前のジャケットのうえに保管状態がよくなく、また画像を切り貼りつなぎ合わせたためお見苦しいのですが、ご一読願えればと思います。

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松本隆といえば、昭和から現在に至る、稀代の作詞家といわれます。2100曲以上の詞を400組近くのアーティストに書き上げ、130曲以上のベストテンヒット、うちチャート1位50曲以上を世に送り出した実績は、比類なきものとされます。

ただ自分は、作詞家としての松本隆をよく知りません。関心があるのは、はっぴいえんどの松本隆です。高校生だった当時、リアルタイムで聴いていました。しかしまだマイナーな存在だったこともあり、メンバーの実像はよくわかりませんでした。時は遷り昨今の松本隆は、メディアに頻繁に登場しています。活字やインタビューなどで、自身の若かりし頃を語ることもしばしばです。はっぴいえんどに心酔していた自分にとって、興味深いことです。

そこで以前荒井由実で試みたと同様、「松本隆ヒストリー」を書いてみることにしました。本や雑誌、ネットなどに散らばる、彼のこまかな履歴を拾いあつめ、はっぴいえんど解散までをまとめてみたのです。具体的には、その誕生から高校までの成長過程と、細野晴臣と出会ってからは大瀧詠一や鈴木茂らも含め、その人間的な関係性に話を絞りました。詞作のエピソードは採り入れましたが、難しい創作論などには触れていません。はっぴいえんどヒストリーでもありません。あくまで、松本隆の人となりを浮き彫りにすることを目的としました。

松本隆やはっぴいえんどのファンなら、どこかで見聞きした話の寄せ集めです。下記の引用元からつまみ食いし、ただ列挙しただけのことです。でもデータ量で勝負したので、ご存じない話もあるかも、です。松本隆の、その若き日々に関心がある方々に読んでいただければ幸いです。

参考とした 本 雑誌 サイト

『定本はっぴいえんど』大川俊昭編 白夜書房

『はっぴいな日々』レコードコレクターズ増刊

『風都市伝説』北村正和編 音楽出版社

『成層圏紳士』松本隆著 東京書籍

『風街詩人』松本隆著 新潮文庫

『BRUTUS』2015年7月号 特集 松本隆

『松本隆対談集 KAZEMACHI CAFÉ』ぴあ株式会社

『レコードコレクターズ』2017年10月号 作詞家・松本隆の世界

『大瀧詠一Writing&Talking』白夜書房

『阿久悠と松本隆』中川右介 朝日新書

『音楽王 細野晴臣物語』草野功編 シンコー・ミュージック

松本隆は1949年7月16日、東京の青山に生まれる。漢学者の大叔父が名付けた。生家は高台にあり、よく晴れると富士山が見えた。しかし松本が中学のとき、東京オリンピック前の都市計画で立ち退かされる。敷地のあった場所は、現在キラー通りと呼ばれる道路になっている。故郷をなくした喪失感を松本は、はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』であらわした。

両親はともに群馬の出身。若いときに上京し三人の子をもうけた。父は大蔵省の官僚だった。戦時中は学徒出陣、戦闘機に乗る予定だったが、訓練中に事故で足を負傷、出陣することなく復員した。絵画や詩が好きな父だったが、音楽にはさほど興味がなかった。2015年に発売された松本作詞『驟雨の街』。この”驟雨”は、松本の中学時代、父の本棚にあった吉行淳之介の同名小説からとった。

母は伊香保の出で、写真館の娘だった。美人で国鉄のポスターモデルにもなる。相当なおてんば娘でもあり、男装して神輿を担いだ。戦時中は学徒動員で戦闘機造りに従事した。料理が苦手で、台所に立つ時期に戦争があったからと言い訳した。

子供のころ松本は、春、夏、冬の休みごと、母の実家に預けられた。学校が始まる直前まで休みをまるごと伊香保で過ごし、東京の真夏は大きくなるまで知らなかった。はっぴいえんど『夏なんです』は、石段や鎮守の森のある伊香保が原風景。冬にはスケートで、凍った湖を滑った。

伊香保の祖父は、明治三十年代から三代続く写真館を営み、町の有力者でもあった。ハイカラな人で、群馬県で二番目にクルマの免許をとり、初孫の松本には、ひらがなより先にローマ字を教えた。伊香保の家にはラッパのついた蓄音機があり、松本は音楽に興味を抱くようになった小学生時代、映画音楽やクラシックをここで聴き始めた。松本の音楽好きはこの祖父からの遺伝という。

松本は長男。ひとつ下の弟の裕はレコーディングエンジニアで、斉藤由貴の『卒業』を担当。若い頃は『ほうむめいど』というバンドを立ち上げ、兄と同じくドラマーで活動していた。はっぴいえんどの前座をつとめたり、セッションメンバーとしてはっぴいえんどに加わり、兄とツインドラムの競演をおこなったこともある。

妹の由美子は生まれつき体が弱かった。その誕生以来、両親の愛情はすべて妹に注がれるようになる。松本は寂しさより、五歳ながらも長男を自覚するようになった。妹は走ることも泳ぐことも医者から禁じられた。松本はふたつランドセルを持ち、妹は母に背負われ、区域外の遠い通学路を一緒に通った。しかし1980年、心臓を患い26歳の若さで亡くなる。大瀧詠一に書いた『君は天然色』は、妹を偲び綴られた。

生まれた家の隣はキリスト教の青山教会で、庭にブランコやジャングル・ジム、砂場があった。そこで幼い松本は、近所の子供たちと遊びに興じた。教会内には幼稚園もあり、必然的に通うことになる。なにしろ隣のこと、始業のチャイムが鳴ってから家を飛び出すこともあった。

小学校時代

松本少年は、学区外の青南小学校に入学した。当時は規則がゆるかった時代で、越境入学児は大勢いた。1年生のとき、買ってもらったばかりの自転車もろともオートバイにはねられ、生死をさまよう大けがを負う。

最初に読んだ文字の本はSF小説の『地底王国』。オートバイ事故で二か月入院したとき、退屈だろうと叔母が買ってくれた。知らない漢字ばかりだったが、ルビを頼りに読み進んだ。以来松本は読書好きな少年となった。二冊目に読んだのが江
戸川乱歩の『少年探偵団』。乱歩小説の舞台が住んでいる青山だったことにあり、少年探偵団の十数巻すべてを読んだ。

一方でカブ・スカウト、ボーイ・スカウトにも入り、アウトドア志向の活発な少年でもあった。原宿の東郷神社の池に、ハックルベリー・フィンをまねて、手製の筏を浮かべたこともある。仲間のみんなで乗るとすぐ沈んだ。全身ずぶ濡れになり、池の水の臭さに閉口した。

読書は江戸川乱歩からエドガー・アラン・ポーに移り、アルセーヌ・ルパンを経て、コナン・ドイルなど推理小説の世界に耽るようになる。さらに父の本棚にあった、シャルル・ピエール・ボードレールの詩集『悪の華』にも手を伸ばし、怒られた。詩人の生誕から死までを退廃的、官能的に表現された本だった。背伸びしすぎて意味はわからなかったのだが、この手当たり次第の乱読を親が見かね、少年少女用の日本文学全集と世界文学全集を買ってくれた。それぞれ全50巻以上もあったが、すべて読んだ。松本少年は食事の時間も忘れ、七つの海を股にかけるヒーローとなった。

5年の時、親友となる石浦信三と出会う。クラスは別だったがともに本好きで、図書室で仲良くなった。松本は円周率の小数点以下十数桁くらいまで言えたが、学年で算数が1番の石浦は、さらに多くの桁を知っていた。石浦は松本が読んだ本も読み終えているなど、お互いが刺激し合った。石浦はのちにはっぴいえんどのブレーンとなる。

同じく5年の時、家にステレオが置かれた。父の職場に電気工作マニアがいて、その作品を譲り受けたのだ。ところが家にはレコードがない。父母とも音楽に関心がなかった。松本は西部劇映画の『アラモ』『荒野の決闘』『アラモ』などにも夢中になっていたこともあり、主題曲のソノシート(レコード)を買ってもらい聴いた。音楽への関心は、これら映画音楽が入口となった。

松本は漫画も大好きな少年だった。文字を覚える前から読んでいた。小学校低学年から読み始めた『少年サンデー』や『少年マガジン』を、作詞家になってからも読んでいた。一時期は、自分の精神年齢はこれ以上伸びないのかと、本気で悩んだ。

漫画は描くのも得意で、学校の休み時間に人気漫画『まぼろし探偵』の絵を描いていると、まわりに人垣ができた。絵画は父の世界美術全集から、ミロやカンディンスキーが好きになった。抽象性の強いものに魅かれ、上野の美術館であったピカソ展では、感動のあまり涙があふれて出た。

中学校時代

競争率26倍の慶応中等部を受験、合格する。偶然にも石浦が入学していた。クラス替えは毎年あったが、ふたりは3年間とも同じクラスとなる。一緒に学校から帰るなどさらに親密な仲になり、図書室の本を片っ端から読む競争もした。ランボー、ボードレール、ポー、コクトー、ジャン・コクトー、ラディゲなどを、乱読、斜め読みした。お互いに読んだ小説や詩の自慢や情報交換、さらには自分たちも小説や詩を書き、批評し合った。日本の詩人は好きにはなれなかったが、宮沢賢治と中原中也は別格だった。松本の教養は石浦とともに、小学5年ころから中学1、2年時に形成された。

音楽は、カッコいいという理由だけで、マーラー、ドビュッシー、ラヴェル、ストラビンスキーなどクラシックを聴いた。チャイコフスキーやベートーヴェンは月並みだと馬鹿にした。シェーンベルクまでいくとよくわからなかった。余談だが、昨年あったテレビ番組で、松本が当時の読書や音楽の話をすると、対談相手の斉藤由貴が、「そんな同級生がいたら、いじめたくなっちゃう」と突っ込んでいた。

背が高かったので勧誘され、バスケット部に入部した。二年まできつい練習を体験。真夏に地方で合宿したときは、スポーツドリンクのない時代、生ぬるい水を飲んでは吐きながら、体育館を飛び回った。得意な絵も捨てがたく、形だけ美術部にも入った。

松本が中1のとき、一家は青山の家を立ち退き、麻布笄町に引っ越している。

ビートルズ

中2の終わりごろ、クラスの事情通がビートルズの存在を皆に話し、レコードを学校に持ってきた。ものわかりのいい英語の教師が、授業で使うポータブル・プレイヤーで、その『抱きしめたい』をかけてくれた。この一瞬で、松本隆というそれまでの文学少年&バスケット少年は終わりを告げる。マーラーやドビュッシーも消え去った。松本の音楽のすべては、ビートルズなどイギリスのロックに代わった。そして自分もやりたいと思った。どうやってやるかわからなかったが、やりたいと強く思った。

プレスリーなども聴いてはいたが、それほど感じることはなかった。のちに知り合う1、2年年長の細野晴臣や大瀧詠一はプレスリーにはまった。わずかの年齢差で、松本はアメリカンポップスや黒人音楽の洗礼を受けなかった。上に兄弟がいれば、プレスリーを好きになっていたかもしれない。ただはじめて小遣いで買ったレコードは、リトル・ペギー・マーチの『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』のシングルで、このあたりは大瀧と重なり合うという。

バンド結成

3年の修学旅行は長崎だった。ここで仲間と盛り上がり、5人でバンドをつくることになる。誰も楽器は弾けなかった。カッコいいドラムポジションはみなの奪い合いになったが、松本はジャンケンで勝つ。成績表のAの数をかけて、親にドラムを買ってもらう。ギターも試したがすぐあきらめた。音痴じゃないが、ヴォーカルは好きじゃなかった。のちに細野晴臣の前で歌ったが、嗤われた。

バンドのスタイルは、他の皆がやっていたビートルズはやめた。同じリヴァプール・サウンドのデイヴ・クラーク・ファイヴを真似ることにした。理由はカッコよかったから。すべての基準はカッコよさだった。松本らメンバーのルックスもまぁよかった。というよりルックスオンリーだった。後輩の女の子が騒ぐのがうれしかった。

このバンドでは『ファントマのうた』というのオリジナルをつくった。松本が詞を書いた。フランスの『ファントマ
光石火』という怪奇映画をもじったもので、修学旅行で行った長崎でつくった。むろんお遊びだが、コクトーの匂いを織り交ぜた、一応これが松本の処女作ということになる。しかしこのバーバリアンズと名付けられたバンドは、練習だけで自然消滅してしまう。

部活

部活は3年生になるとき体育会系が嫌になり、バスケット部は退部した。同時に美術部の部長になる。部会には一度も出たことはなかったが、なぜか指名された。画家になろうと考えていたほどの才能が認められたのか。

ところが石浦に誘われ方向転換、美術部もやめ放送研究会に入ってしまう。ここでは昼の校内放送の原稿を書いたり、ディスクジョッキーを適当にこなした。松本は学園祭に放送劇として、安部公房『赤い繭』の戯曲を書いたが、顧問だった古文の教師に前衛過ぎる、もっとやさしく書くよう却下される。「若いときはこういうものを書きたがるんだ」と言われ、いたく傷ついた。

高校生時代

慶応高校に進むと、石浦とはクラスが分かれた。疎遠になり、たまに会ってお茶を飲む程度になった。石浦は学生運動に走ったのだが、松本は関心がなかった。世の中は暴力では変わらない、音楽なら変わるかもしれないと考えていた。

部活は中学時代の友人が、体を鍛えようと体育会に誘う。何部かわからずついていったら、レスリング部だった。来た以上もう逃げられず、やむなく入部した。しかし嫌でたまらず、かといって辞めるといったら体育会のこと、なにをされるかわからない。それでも半年後、配られたユニフォームを見て着る気が失せる。意を決し退部を申し出た。理由はバンドをやることとした。ならば日本一のバンドになる覚悟はあるかと問われた。ここで逡巡したら辞めれない。やむなく「なってみせます」と宣言した。

バーンズⅠ期

松本は新しいバンドを結成する。レスリング部で辞めた理由を周囲は知っている。その手前もあったが、夏に千葉県館山の海の家で、3歳ほど年上の上手なバンドを目の当たりにしたことも大いに刺激になった。それまでのバンドは遊びでしかなかった。活動を本格的なものに変えることにした。

バンド名は『バーンズ』。イギリスのインストゥルメンタルバンド、ザ・シャドウズを真似た。腕のあるメンバーをあつめた。放送研究会で一緒だった伊藤剛光がギターで、松本がドラム、あとリードギターとベースの4人。おそろいのユニフォームまでつくり、1年生の間は練習に専念した。松本はいつもドラムのスティックを持ち歩き、漫画雑誌を叩いて練習した。松本「厚めの雑誌はいい音がした」。

のちに細野晴臣が加入することになるのだが、それまでのこの時期をバーンズⅠ期と呼んでいる。細野は言わせるとⅠ期は金持ちの子弟が集まった、慶応の坊ちゃんバンドということになる。

2年生の頃には相当上達、パーティー演奏のバイトをするようになった。池袋のヤマハにWISというバンドの登竜門があり、ここでの最上級に達する。その渋谷店がオープンしたとき、道玄坂に面したバルコニーで演奏もした。またドラムメーカー主催の全国コンテストで優勝。そのご褒美でテレビ朝日『ヤング720』に出演した。レッド・ツェッペリンの『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』を演奏し、松本はドラムソロを披露した。

バーンズは1967年、ヤマハ主催の第一回ライトミュージックコンテストの関東甲信越大会に出場し、ロック部門の第3位にもなっている。このときフォーク部門で第2位だったのが、早川義夫率いるジャックスだった。松本はその『からっぽの世界』を聴き、日本語のロックの可能性を見出す。松本はこの頃、コピーにも嫌気がさしていた。ジャックスの日本語での、自分たちの言葉での歌に松本は衝撃を受けた。

時あたかもグループサウンズの全盛期だったが、それは従来の歌謡曲と何ら変わらなかった。松本にとってグループサウンズは、自分らの音楽にとってまるで関係ないものだった。音楽ですらないと思っていた。ああはなりたくない、無関係のものだった。関西フォークも嫌いだった。のちに高田渡と知り合ったが、『自衛隊に入ろう』も大嫌いだった。岡林信康も理解できず、のちにバックをやるとは思わなかった。

細野晴臣

慶応大学商学部に進学する春、バーンズのベースが勉強のため抜けることになる。高校を卒業したので、これからはディスコなどでバイト演奏して稼ぎたい。ベースの欠員を埋めるため松本は、細野晴臣に電話をする。面識はなかったが、天才ベーシストとの評判を耳にしていたのだ。細野はこのとき立教大学3年だった。

翌日、原宿駅前の喫茶店で会うことになった。高校を卒業したての松本は、ピン・ストライプのスーツにレイバンのサングラス姿で細野の前にあらわれた。それも遅れてやってきた。勧誘する立場として虚勢を張った。生意気な気障野郎だと、細野は思った。その細野は髭と髪を伸ばし、齢二十歳にして人生を悟りきったような容貌だった。まるでお爺さんだと、松本は思った。

挨拶もそこそこに松本は、ヤマハのコンテストに出て賞をもらったとか、テレビでドラムソロをやったなど、自慢話を披露する。細野は閉口したが、金もうけのため誘いに乗ることにした。そしてベースの腕を披露するため「今から道玄坂のヤマハで弾く」と、原宿から渋谷まで一緒に歩いた。細野は楽器売り場にあるベースでビートルズの『デイ・トリッパ―』を弾いたが、三回やって三回ともつっかえた。いいところを見せようと難しい曲を選んでしまった。

不安になった松本は、「いちおうはオーディションをしたいんだけれど」と、課題曲を細野に告げる。失礼な奴だと細野はむっとしたが、目にもの見せてやろうと練習し、後日、バーンズの伊藤剛光の青山の超豪華な家にベースを担いで行った。前回とは打って変わった細野の、生き物のように動く指に松本らメンバーは驚き、深い音楽知識にも敬服した
初対面でつっぱったのも、細野の実力になめられまいとする必死の抵抗だった。「バンドをやるには髪が短すぎる」と言われた松本は、カツラをかぶることになった。

バーンズⅡ期

こうしてバーンズⅡ期がスタートした。メンバーは、細野晴臣ベース 松本隆ドラムス 伊藤剛光リードギター、そこに小山高志というヴォーカルが加わり、インストゥルメンタルバンドを脱することになる。バーンズは青山や赤坂のディスコで毎晩、朝まで演った。

バーンズⅡ期の活動期間は1年間だったが、大学は松本の入学時から学園紛争で休校ばかりだった。ロックアウトがなかったら、バンドなんかやっていなかった。しかし松本は、中学の頃から自分はサラリーマンには向いていないと感じていた。人に頭を下げるのが嫌いだった。就職する気はなかった。自由業しかないと思っていた。はっぴいえんどを解散して、無為の日々を送っていたとき、あるレコード会社からディレクターにならないかと誘われた。未来を保証するとの言葉に心が揺らいだが、翌日断った。このときの一度だけは迷った。

それでもやはり松本は、細野と出会わなければ銀行か商社に就職していたという。細野は松本の母親に呼び出され、「うちの息子を悪い道に引き込まないでくれ」と懇願されている。官僚の父は泣いていた。しかし息子は就職どころか、大学を中退してしまう。松本を音楽の道に引きずり込んだ当の細野は無事卒業したというのに。おまけに細野は自分の卒論作成を、松本に協力させている。社会学の担当教授に「これからはっぴいえんどという、世にも大事なバンドをやる」と、松本が書いた詞を教授に提出したのだ。細野によれば、教授はその詞にいたく感激したという。

詞作

松本が大学2年の時、細野に詞を書くよう勧められる。それも日本語の詞を。次のエイプリル・フールで細野は英語詞を強要したのだが、バーンズでの細野は日本語の歌を望んだ。詩は好きな松本だが、音に乗せることは考えなかった。ジャックスを聴き、刺激は受けていたのだが、具体的な方法がわからなかった。中学校の時の詞は遊びだった。細野はサイモン&ガーファンクルを訳すことを提案、松本は辞書を片手に、その夜から『サウンド・オブ・サイレンス』に取り組んだ。

松本は外国の歌詞では、ジョン・レノンとボブ・ディラン、そしてポール・サイモンが好きだった。ポールは特別だった。しかし難解で、日本語にうまく置き換えられない。大学の、東洋英和からきた、クラスで英語が一番の女の子に訳してもらった。松本はビートルズやプロコル・ハルムも聴きなおし、詞の研究を重ねた。

こうして松本の詞作が始まったのだが、曲も一度作ったことがある。しかし細野に嗤われ、以来やめた。天才がそばにいると、音楽の才能が封じ込められる。18歳の時に細野が目の前に現れ、この関係性は死ぬまで続くだろうと、このときから感じた。しかし詞では負けない。強い自負を松本は、胸に秘めることになる。

バーンズ解散

バーンズは、主に青山のディスコ『コッチ』に定期出演するようになる。ここで培われたR&Bが、はっぴいえんどのベーシックとなった。バーンズは慶応大学のサークル『風林火山』にも所属していたので、毎週土曜日開かれる軽井沢三笠ハウスでのダンスパーティーなど、あちこちで演奏した。松本は、軽井沢の合宿所のようなところに長い間寝泊まりし、そこを追い出されると友達の家を転々とした。

68年の秋、風林火山主催のコンサートにトリで出演することになり、松本は細野とオリジナル5曲をつくることになる。これが松本の本格的な詞作群となった。はっぴいえんどに先駆けての日本語のロックということにもなる。このときの『暗い日曜日』は、次に加入した『エイプリル・フール』のアルバムに収められた。同じく『めざめ』という歌は、はっぴいえんどファーストアルバム『ゆでめん』に入れようとしたが、ボツになった。この詞は、72年11月に出たエッセイ集『風のくわるてっと』におさめられている。

なおこのコンサートでのバンド名はバーンズではなく、『アンティック・マジシャンズ・アンノウンバンド』を名乗った。細野はバンド名を考えるのが好きだった。すぐ変えるのも趣味だった。細野は自ら属すバーンズを評価しなかった。ヴォーカルが弱いこのバンドは、活動を終えることになった。

新バンド

このころ柳田ヒロ率いる、『フローラル』という実力バンドがいた。全国公募によって結成され、すでにシングル盤2枚を出していた。柳田はアルバム制作のため、より優れたベースとドラムスを求め、細野に声をかける。細野はアルバムをつくれる魅力と、月給5万円に目がくらみ加入を決める。

そして松本も誘われる。松本は大学で勉強すると渋ったが、口説き落とされる。好きな音楽の魅力に勝てなかった。大学は周囲が十数名も落第して、友達がいなくなっていた。学校へ行く魅力が失せたタイミングで誘われてしまった。松本は高校時代と同様、大学でも政治に関心がなかった。全共闘の友人も、右翼系の友達もいたが、思想的にどちらにも属さなかった。暴力ではなにも変わらないという考えは、高校のときから変わらなかった。自分には音楽しかないと、政治には染まらなかった。

エイプリル・フール

かくてフローラルは4月1日、その日をもじった『エイプリル・フール』に改名する。菊池栄二リードギター 小坂忠ヴォーカル 柳田ヒロキーボード 細野晴臣ベース 松本零ドラムスという布陣となった。松本はこの時だけ、松本零という名を使っている。とくに意味もなくつけたのだが、まもなく脚光を浴びる漫画家の松本零士とダブることになり、以降は本名に戻した。

バンド活動の拠点は新宿のディスコ『パニック』。花園神社近くにある、不良外人がたむろする危険な雰囲気の店だった。
9月には単独ライブをおこなった。10月に発表したアルバムは、ボブ・ディランの『プレシンング・タイム』が唯一のカヴァー曲で、他はオリジナル。うち2曲が松本による日本語歌詞だった。

エイプリル・フールは、当時の日本の水準では群を抜いた存在で、評判は評判を呼んだ。ちなみに当時のサラリーマンの給料は3万円の頃。松本は5万円をもらい、毎晩演奏出来てうれしかった。ドラマーとしてのスキルも上がった。当時は右足が機関銃のように動いた。2000年発刊の『はっぴいな日々』で松本は、「人生で一番楽しかった時期」と語っている。

しかし実は、結成直後のアルバム制作時に細野と柳田が大ゲンカし、エイプリル・フールは早々の解散が決まっていた。契約が9月まであり、決められた仕事をこなすだけの活動となっていた。松本も日本語の詞を2曲しかやらせてもらえなかった。英語の詞をいやいや書いていた。バーンズでは日本語を勧めていた細野も、エイプリル・フールでは一転、英語しか認めなかった。松本いわく「細野さんはすぐ裏切る」。

はっぴいえんど

バーンズのときから松本は、細野のバッファロー・スプリングフィールド音楽志向に共鳴していた。加えて小坂も細野に感化され、まだエイプリル・フール在籍中ではあったが、3人は新しいバンドをつくることで一致する。しかしそこへ突然、小坂のロック・ミュージカル『ヘアー』の出演が決まってしまう。困った細野は友人の中田佳彦に声をかける。しかし就職すると断られ、大瀧詠一に声をかける。大瀧は岩手から上京後、バンド活動をしていて、中田を介して細野と知り合っていた。ポップス好きだった大瀧が、細野から借りて聴いたバッファロー・スプリングフィールドの魅力に気づき、新バンドに合流することになった。

松本は、今度こそ新バンドの詞は日本語でやりたいと、細野を説得する。大瀧も日本語に反対したが、松本は年長で頑固者のふたりを、どうにか説き伏せる。大瀧いわく、松本は日本語の有意義を、子供のように駄々をこねるが如く力説したという。大瀧は野球や相撲や落語が好きで、松本とは趣味が違った。ただ漫画が共通点だった。ちょうど漫画雑誌『ガロ』が全盛期で、その話で盛り上がった。しかし大瀧の、初対面の松本への印象は悪かった。細野宅で会った松本は、黒い衣装に身を包んでソファにじっと座ったまま、大瀧にひとことも口をきかなかった。「慶応の嫌な野郎」と、早稲田の大瀧は思った。

さらなる大瀧の証言によると、細野は新バンド結成にあたり、ドラマーを旧知の高校生林立夫にするつもりだった。松本は第二候補だった。しかし林は他の者と新バンドをやりだしたため、松本になった。運命の大きな分かれ道だったことになる。

新バンド名は『ヴァレンタイン・ブルー』。みんな女性に縁がないので、ヴァレンタインにはブルーになると細野がつけた。事実、エイプリル・フールまでモテていた松本が、新バンドではだめになったとぼやいている。翌年、『はっぴいえんど』という歌ができると、「松本、このほうがいい」と細野がまた変えた。

松本の発案で、細野、大瀧の3人は、東北へクルマで旅をする。トランクにギターを入れ、大瀧のふるさとの岩手や、十和田湖、そして松本が子供のころ夏休みなどを過ごした伊香保なども回った。清里では、男だけではダメだとラブホテルに断られ、車中に泊まった。翌早朝、『抱きしめたい』の原風景となる、雪景色を走る機関車を目撃した。また大瀧詠一の『1969年のドラッグレース』も、この旅から生まれた。3人はこの旅で、新しいバンドへの意欲を高めていった。

ゆでめん

とある日、松本は友人を訪ねるため、当時住んでいた西麻布から冨士見坂を上り、テレ朝通りでタクシーをひろう。その日は雨降りで、車中から印象的な六本木の情景を、頭の中で詞に綴った。友人の部屋には大瀧がいて、部屋に着くなり大瀧がすでに書いていた曲に、即興の詞を載せた。あまりの早い仕上がりに大瀧は驚いた。こうして『12月の雨の日』の原曲ができあがった。

歌をつくり始めたものの、新バンドにはリードギターがいない。細野は旧知の天才少年鈴木茂に声をかける。大学浪人中の鈴木も、松本と同様細野に口説く落とされた。松本の家に細野と鈴木が集まり、ほぼ出来ていた『12月の雨の日』に、鈴木が印象的なイントロフレーズを加えた。はっぴいえんどとして初めての歌が誕生した。

『かくれんぼ』の詞は、渋谷の喫茶店で書いた。換気が悪く、煙草の煙が漂っていて、その雰囲気をまとめた。ファンの女の子とお茶を飲んでいたのだが、話すこともなくなり、ノートに詞を書くふりをしていたら自然にできてしまった。レコーディングのとき大瀧は、「曇った冬」を「曇った空」と歌ってしまう。松本は歌詞カードを書く段になって誤りに気づいた。手遅れだった。

松本ははっぴいえんどのマネジメントを、石浦に依頼する。石浦は慶応の工学部に進んでいた。このころ松本は、高校時代の3年間すっかり忘れていた文学や小説、詩の世界に戻っていた。ローレンス・ダレルや、マンディアルグ、ジュリアン・ブラックなどを、石浦とまたやりあった。これらと、松本が好きな日本の漫画の世界が混然一体となり、ゆでめんの詞はつくられた。方法論は確立されていなかった。「メチャクチャに書いていた」と松本は振りかえる。

ゆでめんのコンセプトとしての日本的な情緒について松本は、当時劇画雑誌の『ガロ』が売れていたことを理由に挙げている。詞の世界を、漫画家のつげ義春の世界を音楽で表現しようと思い立ち、松本はその路線を勝手に走り出した。その独特の色合いに他のメンバーはついてゆけず、仲がギクシャクしてしまった。ゆでめんの独特の歌詞カードは、松本と石浦が独断と偏見でつくった。鈴木はゆでめんを、暗くて好きではないという。

ゆでめんの録音を終えたあと大瀧の言葉が残っている。 「これでもう充分に日本の音楽界に足跡を残すことができたんだって、本当に力強く思った。当時松本の彼女がレコード屋さんの店員をしていたけれども、その彼女が『はっぴいえんどは日本のビート
ズ』って言ったのを覚えている」。

岡林信康

はっぴいえんどを名乗って活動する一方、岡林信康のバックバンドとしても活動するが、これはお金の問題だった。バンドとしての技量向上にも役立ったが、これら以外に松本らに得るものはなかった。そもそもメンバー全員、岡林の音楽がわからなかった。このコンビは、同年12月に解消する。

岡林と松本にまつわる話を、大瀧が語っている。「岡林さんはいい人だった。(ツアーで)松本がドラムを持って歩きたくないとわがまま言った時、岡林さんが持ってくれた。オレも松本のシンバルを持って、大阪から家に帰ってきたこともある。ひどい奴なんだよ。自分の物を持って歩かない(笑)。未だ恨んでるよ(笑)」

風街ろまん

風街ろまんの詞は、石浦とふたりでつくった。それまでのすべての蓄積を吐き出した。松本がベッドで寝っ転がって詞を書き、部屋の隅で本を読んでる石浦に渡す。「どう?」「おもしろいね」。「ここがちょっと弱いね」など、石浦はアドバスしてくれた。共作というほどではないが、松本が出すアイデアやイメージに、石浦は理論武装をしてくれる特異な存在だった。歌謡曲の世界に入ってから5年ほどは、石浦が一緒だったらと何回も思った。

しかし石浦とは大ゲンカになったこともある。松本は2枚目アルバムタイトルを『風都市』とするつもりだった。しかし制作締め切り直前に、石浦が新しい事務所名やコンサート名に無断で使っていたことがわかったのだ。すでにコンサートチケットやチラシも刷っていた。アルバムに同じ名前は使えない。松本は激怒し、悔し泣いた。やむなく一晩考え、”風街”という言葉を思いついたが、何か足りないとさらに考え、”ろまん”を付け加えた。

風街の歌はほとんど詞先だった。松本は『風をあつめて』の「背伸びした~」を、自身でも気に入っている。レコーディング当日、細野はこの詞を床に広げ、スタジオの廊下の壁にもたれてギターを弾いていた。「どんな曲?ちょっと聴かせてよ」と松本が訊くと、「まだ未完成なんだ。ちょっと待って」と、細野はまたギターを弾きだした。レコーディング直前なのにこの人は何言ってんだ、と松本はあきれた。歴史に残るこの名曲は偶然できた。

松本は他の三人を全面的に信頼していて、詞が渡ったらあとはその感性に任せた。『暗闇坂むささび変化』は最初、大瀧に詞を渡したが出来ず、細野に回ったもののこれまたうまくゆかず、ふたりの間を詞が行き交った。この頃の松本は、湯水のように詞があふれ出した。『抱きしめたい』は、岡林のツアーで青森から帰る食堂車で、紙ナプキンに書いた。

『はいからはくち』というフレーズを思いついたのは、69年の夏、細野の家に行く都電が清正公前に停まったとき、ポンッと浮かんだ。ただこのフレーズを詞とするまでは、1年かかった。ようやくできた翌年8月、日比谷の野外音楽堂で松本は、後ろから大瀧の肩をポンと叩く。そして「詞ができたよ」と『はいからはくち』を書いた紙を預けると、そのまま去っていった。松本の詞の渡し方は、いつもさりげなかったと大瀧は言う。他の本に書かれている大瀧の、遠慮ないストレートな別の表現によれば、「さっと立ち去った。またカッコつけてね」。

結婚

71年5月、松本は結婚式を挙げる。メンバー一番乗りの、まだ21歳での結婚だった。新婦は細野の小学校の同級生。しかしその出会いに細野はまったく関係ない。奇遇に三人は驚いた。はっぴいえんど解散時、新妻のお腹の中には子供がいた。

解散

風街ろまんで完全燃焼した4人は、目標を見失い、それぞれの音楽志向が強くなっていった。細野と鈴木はその後、スタジオ・ミュージシャンとしての活動を本格化させ、大瀧はソロ・シングル&アルバムの制作にとりかかる。松本は柳田ヒロ、五つの赤い風船など、他のアーティストへ詞の提供を始めた。本格的な作詞家への転身はまだ先のこととなる。

風街ろまんが出てしばらくして、はっぴいえんどは解散が決まった。細野と大瀧がふたりで決めた。松本と鈴木は結果だけを知らされ、目が点になった。解散の理由は、細野と大瀧の確執ともされる。あまりのことに松本は、椅子を蹴飛ばして部屋を出て行ったとされる。しかし松本に言わせると、解散話があったレコード会社の応接室は、重いソファしかなかったという。松本は細野と大瀧の関係悪化を知っていた。風街ろまん『花いちもんめ』の煙突の比喩は、間に挟まり困り果てた松本が詠った。

HAPPY END

こうしてはっぴいえんどは解散することになったのだが、3枚目のアルバムをつくることが決まってしまう。最後のアルバムをつくりたいレコードプロデューサーの発案だった。大瀧は、アメリカでの録音技術を学ぶ機会だと乗り気になる。そして他のメンバーを説得。海外志向のない松本は反対するも、細野と鈴木は賛同し制作が決まる。

松本は海外録音どころか、バンド活動に意欲を失っていた。細野は「松本はその頃、一番ひねくれていた。もうドラムは叩くのを嫌がっていた。みんなにドラム技術をくそみそに言われ自信をなくし、作詞家になる決心をしていた」。鈴木も「松本さんのドラムは非常に素晴らしいと思うんだけれど、頭がズレるし、オカズが入ると頭がどこにいっちゃうかわからなかった」。

アメリカ行きが決まっても、風街で燃え尽きた松本は詞が書けなくなっていた。鈴木の詞だけは書くが、アメリカではドラムを叩くだけ。細野と大瀧には、ソロアルバムスタンスのつもりで、自分で書いてくれと頼んでいた。しかし現地に着いてから大瀧が、どうしても書けないと泣きついてきた。しかたなく松本は日本に国際電話。家に書き溜めてある詞を、妻から聞き取った。松本は3枚目のアルバムは手抜きの極致だとする。好きではない、存在してほしくないアルバムとまで言う

松本は結局は大学を中退するが、解散後、一旦大学に戻った。石浦は、細野や鈴木らのキャラメル・ママのマネジメントなどを2年ほどやったのち、都合5年ほどいた音楽業界を去った。メンバーの行く末を石浦は心配していた。石浦自身は大学に、数学教員の職を求めた。

松本は第一エッセイ集『風のくわるてっと』を出版する。はっぴいえんど時代に書いた詞と、各音楽誌への寄稿文をまとめたものだった。松本はこの本を、三年後に上梓したエッセイ集『微熱少年』で「青春の墓標」と記し、さらには風街ろまんを「卒塔婆にもなりはしない」と、自らの数年前の作品を突き放している。このころの松本の心理状態が垣間見えるようでもある。

はっぴいえんどの正式な解散日は、1972年12月31日となっている。

解散コンサート

すでに解散はしていたが、翌73年9月21日、コンサート『CITY Last Time Around』に、メンバー4人ははっぴいえんどとして出演。この最後のステージで松本は、バンド人生を気持ちよく、そして完全燃焼することができた。解散は自分が決めたことではなかったが、四つどもえの総体的な価値観から逃れたいという思いもあった。ドラムは好きだったけれど、細野以外のベースでドラムを続ける気もしなかった。これで心置きなく作詞家になれると思った。

最後の『春よ来い』を演り終えると松本は、スティックを宙に大きく放り投げた。

はっぴいえんど解散コンサート

ブログあとがき

今回このブログを書くにあたり、冒頭に記した資料から、松本隆の人となりのエピソードをピックアップしていったのですが、有名な話は形を変えあちこちに書かれていました。たとえば松本隆と細野晴臣が初めて出会ったときのシーンは、様々なパターンで綴られています。これが異口同音程度であれば問題はないのですが、記憶のズレという程度では収まらないほどの差異があり、少々困りました。

むろんどれが本当の話なのかわかりません。よってこういう場合は勝手ながら、複数の話からひとつを採るか、あるいは話を重ね合わせるなどしました。ストーリーの大勢にはなんら影響のない、細かな点なのですが、松本隆ファン、はっぴいえんどフリークといわれる方々にとっては、疑問に感じるかもしれないということです。これらの箇所については、複数の元ネタがあったということです。ご理解ください。一方、同じエピソードは、欠けていたパズルがピタリあてはまる感もあり、より緻密な内容にすることができました。

なお、松本隆が最後のドラムを演じた、コンサート『CITY Last Time Around』は、ライブ盤が発売されています。そしてアルバムジャケットには、松本隆の『はやすぎた回想録』と題した一文が刷り込まれています。解散の心境を綴った貴重な名文です。ブログの最後に、そのスキャン画像を転載させていただきます。なにぶんもう45年も前のジャケットのうえに保管状態がよくなく、また画像を切り貼りつなぎ合わせたためお見苦しいのですが、ご一読願えればと思います。


アルセーヌ 関連ツイート

つーか、ジョーカーとははじめましてなんだよなぁ。。

アルセーヌってどんなステ持ってんだろ…??

単発でSSRでておっってなったけどなんかアルセーヌとか見えた
本体が怪盗のほうじゃなかったのでセーフ
アルセーヌ「ヘザーちゃん、新鮮な野苺取ってきてくれてありがとうね!後でこれを使った美味しいケーキ持って行くよ!」
@Arsene_J_R アルセーヌ・J様 おはようございます

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